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「ないものさがし」ではなく、「これがあるんだ」という見方を

いよいよ後半戦最後になりましたので、もう締めのお話になりますけれども、この本の中にこういうのがあります。「南島詩人農場」というタイトルのエッセーがあります。これは沖縄タイムスの「唐獅子」というのに載ってたやつですけどね。
 「わしは今年百十三トンだった!とオジーは誇らしげにニヤリと呟いた
 百十三トン!この数字が大変なことかどうか、もう僕には解らないんだ。砂糖キビの品種だって、この島で年間何トンのキビが収穫されているのかということだって、もうこの僕は解らなくなってしまっている。
 若い連中にはなに言っても通じんさぁ。オジーは寂しげにまた呟き泡盛をあけた。
 果たしてこの僕は、この島の一体どれだけを語ることができるだろうか。激しく自問自答。じっとりとした汗が自然とふきだし、僕は確実に、自分の魂の根っこの部分が枯れかかっている気がして泣きたくなった。
 昨年、春、頑強なオヤジが胆石という小さな石に倒れ、入院したというので急きょ帰省した夜のことであった。当時、僕は東京で半分働きながら苦学生もどきみたいなことをやり、月に一回どこかの舞台で金にならない公演をしたりの日々を送っていたわけで、『舞台に立つ』=『人に見られる』ということに一種、慣れみたいなものを感じはじめていた。このままではいつか自分を見失い、空回りしそうだ。『どう見られるかではなく、どう在るべきか』の初心の想いを忘れてしまうかもしれない。そう思った矢先のオヤジの入院、そして帰省した夜の隣のオジーとの酒宴の席での会話なのであった。
 ある日、夕暮れの農道を車で走っていると、薄暗がりのキビ畑の中、一人黙々とキビ倒しの作業をしているオジーを目にした。辺りには人の気配はなくただ、北風がひゅるひゅる吹くだけの広大なキビ畑にたった独り、必死な形相で挑むオジーの背中は逞しい生命力に満ちていた。僕の中で欠けていた何かが、この島には確実にある。
 島で生きると決意したのはこの瞬間であった。
 去る八月、港の見える畑に砂糖キビの苗の植え付けをする。生まれてはじめて立つ自分の名義の一反五畝(十五アール)の小さな畑は西陽がさしキラキラと静かに息づいていた。
 "島詩人農場"と名付けられたその畑は等身大の僕の真面目な遊び心と意地の結晶なのである」
 こう書きました。これが僕の原点でもあります。今、私こうやってこれ書きました。どうか、平田さんが簡単に言うと、どうやら地域興しマイスターとして考えていることなんだなと思わないでください。沖縄はどうなったらいいかということを考えてのことなんです、これは。  もっと言うと、自分の地域、皆さんが今立っていらっしゃる地域。うちは何もないんだよねと。こういうふうなことでなくて、うちにはこれがあるんだという見方をぜひしてもらいたいと思いますね。
 この、ないものさがしをしてしまいますと、本当にこれ言うと行政の方に申しわけないんですが、補助金というものの使い方。これ、扱い方を非常に気をつけなければいけません。「うちにはこれがないから、うちにお金をくれ」と申請書を出します。つまり、ないもの勝負になってしまうわけなんですね。
 ノー補助金でいこうというのは、これはあくまでも、僕は地域住民からのボトムアップの立場で言ってますけれども、そういうふうに言わないといけない部分もあるわけなんです。うちにはこれがあるから、補助金は本当に使ってほしいところに使ってくれと。頑張っているところにおりてくる補助金はありがたく使わせてもらおうじゃないか。「うちにはこれがないから」でつく補助金こそ、心配なものはありません。
 ないものさがしを始めるんじゃなくて、あるものさがしを始める。舞台でいうならば、本番が終わった後に駄目出しってあるんです。わかりますか。本番終わった後に、「失礼します。きょうの駄目出しやります。あっちこうして変えてください、こっち変えてください」とやるんですね。僕の舞台の演出では、駄目出し、ほめ出しとあります。それも駄目出し3のほめ出し7です。三つ、あそこもっと顔をしっかり上げて目をやる。ところが七つ、「あそこよかったね。みんなで拍手しよう」、ばーっとやってあげる。駄目出し3のほめ出し7。
 島おこしの重要なポイントは、うちの島の駄目出し3のほめ出し7を1回あげてみてください。わからなければ、外から来た人に、うちの島のどこがいんだろうかと、どんどん学んでください。もうびっくりするぐらい、教わることが多いと思います。
 同時に、そういうふうにすることによって、自分たちのまちの見方が変わってくる。ですから、本当にそういう意味で言うならば、最近は他人の子供を怒れなくなって、CMが流れてますね。「大人よ、叱ろう」みたいなCMが流れてますが、僕は逆だと思いますね。他人の子供をほめられる大人が少なくなったんです、きっと多分。他人の子供を叱る以上に、ほめることが重要な気がしますね。そういうことをしないし、自分の子供をほめる親も少ないです。
 私の家のおやじは、これだけは自慢できますけれども、昔は酒飲んだら暴れるおやじでした、昔は。それ見ながら、僕は子供のころに反面教師にしまして、絶対自分が大人になったら奥さん殴らないみたいなことを思いました。ここだけの話ですけれども。
 子供は、大人が曲がれと言ったら必ず曲がるかというと、そうではないんです。タフな子供をつくらないといけないし、もっと言うと、うちのおやじがそういうおやじでしたけれども、本当にすごいなと思ったのは、例えば学校で小さな賞状をもらってきますね。すばらしい立派な額縁に入れて飾るんですよ、がーっと。うちの民宿に来た方はわかると思います。200枚ぐらい、額縁が天井にずらーっと並んでますよね。それよりもいい賞をもらうと、その上にまたもう1枚くるんですけどね。どんどん買ってくる。それがうちの姉ちゃんのものがある。
 「勉強しろ」と言わないけれども、うれしそうにその額縁を飾る姿を見ながら、弟、妹は、私も頑張ろうと思うわけですよ。頑張ったときに、「ちゃんと頑張ったね」という形を残してくれているわけですね。
 正直言って、「勉強しろ」の一言も言われたことありません。むしろ勉強していると、コンコン、ガチャ、「おい、お客さん待ってるから、ちょっと踊りに来い」と言って踊りに出されて、民宿はもう家族総出でやらなければいけませんから、やってました。僕はそのときに、本当にいろいろな意味で周りが僕に学びをさせてくれたんじゃないかと思います。
 同時に、「うちには何もないんだよね」と言っている余裕があるのであれば、あるものをさがす時間に使ってもらいたい。あるものを見つけるまなざしを自分に持たせるために、いろいろな交流をしながら、いろいろ学んでもらいたい。もっと悩んでもらいたいと思うんです。僕自身は、何も自分自身でいろいろな思いがあるわけではありません。こういうことっていうのは、僕のいろいろな知人、友人と語り合いながら、おもしろいこといっぱい教えてくれるんです。その中で僕だったらこれができる、僕だったら力がこれだったら出せるというものが、こういうものなんですね。おそらく皆さんならば、皆さんの立場なりのこういうことが出てくると思います。
 これを、僕は自分で「事業計画」と呼んでますけれども、これ実はちゃんと細かく2000何年までにこれとちゃんと決まっているんです。僕の中ではですよ。大体5年、6年スパンです。
 2010年までに、これを成し遂げます。2010年か2015年の間に、今度は何をするか。いよいよ基地返還がきっと始まるでしょう。それまでに何とか間に合わせたい。何とか子供たちの雇用、子供たちが、人材が本当に世界に通用する文化を持っている沖縄が、頑張って世界を照らす太陽になれるような存在であるということを、僕は15年間ずっと信じてますけれども、いよいよそれが実現させるときが来たというふうにも思っています。
 どうか、いろいろな問題もあるでしょうけれども、自分のかかわっている地域に、もう1回目線を落としてもらって頑張れたらいいんじゃないかなという気がします。
 きょうはもう本当に一方的にざーっと話しました。通常の講演会と全く違う講演会になっています。
 いわゆるこの農業であるとか、第1次産業、第2次産業も含めてですけど、まちづくり、人づくりというところに僕が一番力入れているんだという部分を、共感、共鳴をして持ってくださるんじゃないかなという思いで語りました。
 私の頭の中の一部を、きょうお話ししながら等身大のまま語ってまいりましたけれども、どうでしょう。

今までやってきたことを見方を変えて、自分の足元を見つめる。

最後になりました。ちょっと太鼓を使って1曲やります。皆さん、ぜひこの「大航海レキオス」、お時間をつくって見にいらしてください。私が今手がけていこうということの第1弾がここから始まります。これは、なんと宮本亜門さんが監修になってますので。
 まず、ことし3月までは琉球放送のものとしてやります。その後4月以降は、月1回の定期公演を、今パレットで予定をしております。同時に、来年は県外、そして海外というふうなことを考えてます。絵本をつくる、CDをつくる、DVDをつくる、コンテンツ産業といいました。こういったものとつなげながら、なかなか今、日本には、世界の中でも比率から言うと演劇人口多いんですけど、でも、残念ながら日本の演劇界というのはみんな役者さんたちは貧乏なんですね。「文化でなかなかご飯を食べれない」というようなことを言われてますけれども、おっしゃるとおりだと思います。
 なんとかその文化水準も上げたいんですが、僕は、もっと大事なことは、さっき言ったみたいに、ここで出ているメンバーが、日ごろ農業をやっている。そういう人たちが農の中から、むしろ沖縄の原点みたいなものを見つけてもらえたらどうか。今まで地域でやったものを、沖縄全体の物語をつくって世界に紹介していこうという、そういうふうな内容となっております。
 ちょうど宮古と石垣のほうにも行きます。最後にコンベンションに戻ってきますけれども、これは今週29日、30日。30日には、県外から自称・応援団長を語って、また竹中さんが見えるようでございます。どういう魂胆かわかりませんけれども、地域再生、地域をなんとかおこしたい、その思いなんじゃないかなという気がしますけれども、応援団は小学校3年生の男の子から大臣に至るまで、みんなに応援してもらって、地域のことを見つめなおす作業にできたらいいなというふうに思っております。どうぞ29日、30日、もしよろしければいらしてください。
 では、太鼓を使って1曲歌います。
 きょう歌う歌は、さっきやってました「肝高の阿麻和利」という舞台もあります。必ず一つの舞台に一つのテーマソングというのが僕の思いで、全部オリジナルの曲なんですね。さっき歌った歌も僕がつくった歌です。 
 皆さんよく知ってらっしゃるのは、実はこういう作品を結構残ってまして、「ミルクムナリ」というのはよくご存知だと思いますね。エイサーの曲ですね。あれは15年前に、小浜島に伝わる古い歌を私が亀井日出克さんと一緒につくった歌が「ミルクムナリ」というふうに言われております。そういった面で言うならば、非常にやっていることは昔も今も変わりません。古いものに光を当てて、新しいアプローチでみんなに見てもらうということによって、自分の足元を見つめてもらう作業をしているということですね。
 せっかくですから、「大太陽口説(ウフティーダクドゥチ)」という曲をやってみたいと思います。大太陽というのは、大きな太陽という意味でございます。
 「南ヌ風吹く 若夏ヌ毎に 胸ヌ想いよ 語てぃ話さな」、僕がつくった歌詞ですね。南の風が吹く若夏(ウリズン)のごとに、胸の思いを語って話そう。
 「海ヌ渡りてぃ 島巡りてぃ」、海を渡って島を巡って、「我した二歳達ぬ肝やどんどん」、俺たち若者たちのこの胸の高鳴りをだれかに語りたくってしょうがない。これが1番ですね。
 2番。「今、昔、同様むんさみ 夏ぬ大風 冬の北風」、今も昔も同じことだよ。夏になれば来る台風、冬になれば吹く北風。
 「吹きわん根っ張る 大榕樹さみ」、風が雨が吹いても、あの根を張って倒れないガジュマルの木のように
 「島人元朝 待ちわん 待ちわん」、島の人の新しい夜明けを待っているんだ。
 「あれに見ゆるは 琉球旭日」、あれに見えるは沖縄の新しい夜明けじゃないか。
 「豊かなる日の端兆さみへぇ」、豊かになる平和な世の中の兆しではないか。
 「我した大太陽 今日ぬ嬉しゃに」、俺たちも同じ太陽、胸に太陽昇らせて、きょうの太陽昇ってくる喜びに
 「唄ゆ三線 てぃんとぅる」と、こういうふうな歌をやって踊ろうという、こういう歌詞です。
 島に伝わる古い言葉を使って、僕がつくった新しい口説(クドゥチ)でございます。大太陽口説、太鼓使ってやります。地面に根を張り、そしてその地面からまるで太陽が昇ってくるような、そういう思いでつくりました。21世紀の幕開けを、自分たちで一生懸命引っ張ろうという。小浜島で使われている「ヨロセイ ウレイサー」という綱引きのときのかけ声も入ってます。この幕開けを、自分たちで綱を引こうという、そういう思いです。
 では、よろしくお願いします。



(太鼓演奏)
 では、私のほうのお話はこれぐらいにしまして、あと残りまた後半戦、事例発表を聞きながら、ぜひ意見のほうの交換もさせてもらいたいと思います。本当にきょうは長時間どうもありがとうございました。
(拍 手)
(知念)
 平田さん、すばらしいお話、すばらしい笛、すばらしい太鼓、すばらしい歌、本当にありがとうございました。皆さん、再度、盛大な拍手をお願いしたいと思います。
(拍 手)

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