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平田大一『実践者による地域おこしについて』

島おこしを島から発信

(平田)
 皆さん、おはようございます。
 ご紹介いただきました地域興しマイスター、私が県内3人目です。北部農業普及センターの所長さんからなられた新城寛成先生、そして金城清郎さん。3人目が私でございました。
 地域おこしのアドバイザーとして要請があったところに飛んでいくというような県の仕組みがございまして、そちらの中に今、30代で認定を受けております。 
 そういった意味で今日は、どちらかと言いますと、僕が今やっている活動の本当に一番大事にしているところの人づくり、島おこし、まちづくりというものにポイントを絞って、100分の時間をいただきましたのでお話をしてみたいと思います。12時までのノンストップでございますけれども、どうぞ最後までおつき合いください。
 改めまして、平田大一と言います。よろしくお願いします。
 先ほどお話がありましたけれども、今朝の新聞に第27回の琉球新報活動賞ということで、その中の社会活動賞というものを今度いただくことになりました。この中に司会のほうから掲載記事を後で読んでくださいと言いましたけれども、おそらくリアルタイムでご紹介したほうがいいんじゃないかと思います。
 なぜならば、この中に私がやりたいこと全部入っているからですね。読んでみます。
 「『逆境をいい方向に持っていくことに生きがいを感じる』。勝連町上江州安吉教育長に請われ、32歳という異例の若さできむたかホール館長を引き受けて4年。郷土の英雄を題材にした組踊劇「肝高の阿麻和利」の演出で、子供が主人公の地域おこしという前代未聞の取り組みに挑戦。『舞台での子供たちの成長が首の皮をつなげてくれた』。僕が言ったことをそのまま書いてますね、これ。
「活動の原動力は『大きなチャンスをくれた勝連町の大人たちの期待に応えたい気持ち』という。『だからこそ使命感をもらった』とふり返る。 『ホールは舞台でなく人をつくる工場』。『阿麻和利公演』は5年間で50回を超えた。舞台を通じ育つ子供たちの他分野での活躍も注目を集める。浦添市、金武町、八重山などでも子供たちの舞台を手掛けるが、いずれも題材は各地の歴史。『過去を見つめ未来を学ぶことで道は見える』。
 今年4月、『教育で地域を、文化で産業を興し、沖縄全体を演出していく』新たな活動を開始する。『地域で育った若者の受け皿を広げたい』と意気込む。来年は琉球の歴史を基にした新作舞台を首里城で上演予定だ。
 自身の活動は『文化活動でなく、世の中を変えようという文化運動』。『語ることで自分を肯定しながら進む』という"有言即行"と呼ぶ独自の歩みで前進を続ける」と、こういうふうに書かれました。
 おそらく'96年だったでしょうか、島おこし奨励賞というのを県知事からいただきました。第1回目の奨励賞の受賞者は、個人の部は私でございまして、団体のほうは渡嘉敷のほうが、確か慶良間の太鼓の皆さんがもらっていたような気がします。
 その賞をもらったときの内容が、島おこしを島から発信をしたと。手作りのコンサートとか、あと小浜島の農場倶楽部と呼んでますが、その前身でありました小浜島キビ刈り援農塾ということをやっていたというようなことでの表彰でございました。
 実は、あのときはキビ刈りを教室にして、僕たちは学びの人づくり、島おこしをやっておりました。今、僕は舞台をつくる人という認識が皆さんあります。やっていることは全部一緒なんですね。
 ところが、勝連町には畑がそんなに多くない。それで勝連町では何が僕は一番宝物なんだろうかと考えた挙句に、子供たちを中心とした島おこしをやってみるとおもしろいんじゃないかという提案で始めたんです。
 大事なことは、地域にあるものをどれだけ光輝かせていくか。小浜島には、青い空、青い海。確かに赤いハイビスカスの花が咲いておりました。ところが、観光客のほとんどは竹富・西表に行くばかり。うちの島にはだれも来ないと。「地図にない島・小浜島」という、自分たちで自分たちの島のことをこう呼んでましたので。
 リゾートホテルはあるんだけれども、リゾートホテルに来るお客様の層はあったとしても、観光という形で島にもっと来る若い人たちの世代というんでしょうか。バックパッカーという、リュックサックを背負った者たちが足を運ぶような島とは到底言えない。むしろリゾートに侵された島だというようなイメージの中で、小浜島にはリゾートのお客さんは来るけれどもそれ以外は来ないということが、いわゆる14、15年前の現状でございました。


大嫌いなキビ刈り作業、本当はとても大切だった。

 ところがふたを開けて見ると、うちの島は農業従事者8割という島でございます。このイメージ、飛んでいくイメージと実際に島にあるもののイメージというもののギャップに、僕は愕然としまして、まずみんなに知ってもらわないといけないと。それで何があるだろうかと考えてみると、島の人が一番嫌いだと言われているサトウキビ。
 僕は、子供のころキビ刈りの作業は大嫌いでした。多分、沖縄の若い人、子供たち含めてきっと好きじゃないと思います。土・日かり出されましたから、嫌な思い出しかなかった。
 ところが、東京生活を過ごしているうちに、本当の話ですが、不思議と思い出されるのはあのサトウキビ畑の格闘の日々なんですね。孤独を感じて、ひとりぼっちを感じたときに、無性に自分の中で何か頑張ってみたいという、この憤りですね。自分は何をしたらいいんだろうかと、マグマのような、たぎるみたいな思いがあったときに、目の前にもしサンドバックがあれば、朝から晩まで死ぬほどサンドバックを殴りたいとか。あと、運動場があればずっと走っていたいみたいな、そういう衝動に普通かられるものが、私の中では朝から晩までひたすらキビ畑でキビを刈りたいという。変な話ですが、思ったわけですよ。
 島を離れてはじめて、あのサトウキビでの日々というものがとっても貴重だなと思いました。僕の周りに、いわゆる神経的な病気で悩んでいる友達がいっぱいおりました。お仕事をしている人もそうです。ほとんどはデスクワーク。いわゆる机の上で仕事をやるということですね。そうすると、気持ちは疲れるんですけれども、体はそんなに動いてませんから、体が疲れていないと。気持ちと体のバランスがとれなくなって、顔面神経痛、赤面症、人間恐怖症。そういう友達が周りにいっぱいいました。
 僕はふっと振り返ったんです。うちの島には、体も使えば気持ちも使う、畑があったじゃないかと。島の人たちがあんなに健康なのは、ちょっと重労働ですけれども、でも、雨がふろうが風が吹こうが、島の人たちは畑に行って、あのキビ刈りをやっていた。ああいうふうな体を使う仕事って本当は重要なんじゃないかということをとっても感じたんですね、都会の中で。
 ですから、島に帰ったときに、僕はすぐうちの父親と家のおふくろに相談しました。どうだろうかと。うちは民宿をやってましたが、1月から3月のお客さんほとんどいないわけですよ。団体のお客さんというのは、大体JAのお客さんとか、農閑期を利用して来られるお客さんは、ほとんどリゾートホテルに泊まりますから。ましてやJTBとか大きな、そういうふうな旅行代理店にかかわったところのお客さんが、地元の民宿に泊まることはほとんどですけれどもありません。
 もっと言うと、4島周遊コース。竹富・西表・由布島渡って小浜島行って、石垣に渡るという、まるでベルトコンベアにキビが乗った状態で行くような旅が多い中で、小浜島には最後の島のお客さん、疲れ切った状態でみんな来るわけなんです。なんせ船に乗って40分間、観光30分で終わりますから。これはもうほとんどベルトコンベアのキビ状態。そういうふうな観光という形の中で、うちの島というのをどうやって位置づけていくか。
 でも、うちの島にはなかなか民宿に泊まりませんので、おふくろに聞いたんです。「どうだろう、おやじ」と、まずおやじに聞きました。
 おやじは、僕が小学校3年生のときに、電気事故で1回死んでいる男なんですけれども九死に一生スペシャル」というテレビ番組で流れていました。「電気事故6,600ボルトの電気が体を流れました。当時、小浜島のサトウキビ畑は裸線が通ってましたので、その裸線にワイヤーロープがくっついて、それでいわゆる一度は心臓がとまった男なんですね。今ぴんぴんしてますけれども、九死に一生を得まして。
 ところが、キビを630tつくったその年に電気事故に遭いまして、「篤農家」と言われながらも農業できない体になったということで、仕方なく民宿業を始めたのが、うちの民宿が始まったきっかけだったんです。ですから、うちおやじはもともと観光の人ではなくて、農業の人だったんですね。
 そのおやじが、僕の仕送りをするために一生懸命、観光で案内をしながらやってくれた。島に帰ったときに、おやじに聞きました。「おやじ、畑をつくりたい、どうだろうか。僕の畑をつくりたい。つくり方を教えてくれ」と言いました。そうしたらおやじは、笑いながら「おまえ、キビはだれでも植えられるよ。だけど、刈り取りはだれがするか。大体刈り取りがきついんだ」と言うから、僕は言い返しました。「いや、東京から僕の友達が畑に来たいと言っている。そういう人を集めたらどうかと思うんだけど」今度は「はぁー、人夫賃が大変だ」と。
 じゃ、わかったと。じゃどうせお客さんいないから、1月〜3月の間の中で宿泊・食事を無料にして、そのかわり来るのも自分のお金で来てもらう。労働賃金として宿泊・食事の分で充ててもらう。
 つまり、ボランティアでキビ刈りをやってもらうということと、宿泊・食事の分のお金は人夫賃から引くけれども、労働賃金としての人夫賃は払うというやり方とどっちがもうかるんだと聞いたら、どっちももうからないけれども、うちのおふくろがおもしろいことを言いました。
 当時、民宿18年やってましたから、「1人分ご飯つくるのも20人分つくるのも一緒だよ」と、おふくろが言うんですよ。おやじは、「人夫賃が一番かかるんだ」と言うんですね。なるほどと。「じゃ、宿泊・食事を無料にして、それでキビ刈りをやってもらうというのでどうだ」と。「初日で手の皮むいて、3日で肩の皮むいて、1週間で心の皮をむきたい人集まれ!」と、こういうふうに呼びかけようと。こういうふうに、私がいわゆるプレゼンテーションをしたわけですね。のりがいいうちの両親でございますので、おもしろそうだなということで始まりました。
 ここで大事なことは、島の人にとってみると、何でもない当たり前のことですよ。キビ畑。民宿。ところが僕にとってみると、うちのおやじとおふくろ、この2人をどうすれば、この2人が生き生きと、「老後」と言ったら言葉悪いですけど、まだ当時は若かったんです。このおやじとおふくろがどうやったら元気に、自分たちの生きがい、やりがいを見つけられるだろうか。
 うちのおやじなんかは、学校の先生になりたかった。これ、あくまでも本人いわくですよ。当時同級生40何名中7番目という成績を持っていながら、「うちが貧乏なだけに小学校の卒業で終わった」ということを常々言っていて、「おまえを大学に行かすのはそのためなんだ」みたいなことを言っててくれましたけれども、一つはこれでうちのおやじに先生になってもらおうと思ったわけですよ。だから、援農塾の塾長になってもらいました。いわゆる校長先生です。
 おやじに「キビのつくり方を教えてくれ」と。630tつくったキビのあのノウハウというのはだてじゃないはずだと。おやじが、「よし、やってみよう」ということで、キビ畑を「南島詩人農場」という名前にして教室にしたんですね。宿泊・食事を無料にしました。これ、実はとっても大事なことです。
 援農隊というのはいっぱいありますよね。各地域にある援農隊。あれ、普通は人夫賃を払っています。普通そうです。アルバイトですね。ところが、人夫賃を払うと主従関係が生まれるわけなんですよ。わかりますか。お金を払う人、お金もらう人。そうすると、この人は労働者として労働能力が問われるわけですね。女性と男性ですと、また賃金が変わってきます。
 援農塾でやると、自分さがしの旅であり、自分の根っこさがしをして心の皮むきをするという、そういうことをやるためのものなので。持っている力それぞれでいいよということになるわけです。女性も男性も関係ありません。みんな平等で、そしてうちの畑を刈ってくれてありがとうとなります。
 同時に、島の私の畑だけではすぐに終わってしまいます。隣のひとり暮らしのおばあちゃんの畑。2人でせっせと一生懸命頑張って、孫と息子さんが土・日に帰ってきて手伝うという、そういうお家の畑に「キビ刈り援農隊」という名前で出かけて行って、何10人行こうが1t幾らで請負をして、それでキビ刈りをやるということを徹底してやりました。

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