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ほめられても、けなされても5年間は続けよう

 最初の年は十人程度のメンバーで、約1反五畝ですから15アールですか。本当に小さい畑でね。島の人から「おもちゃ畑」と笑われてました。私はジーパンで畑に行きましたから、島の人から笑われていたんですね。「おまえら親子はほらふき親子だ」と笑われてました。賃金を渡さずにボランティアで、島の人でさえも嫌なキビ刈りを、大和から来た人がやるはずがないということなんです。ましてや飛行機賃も自分で出すんだと。どうなんだ、これはと。「ほらを吹くのもいい加減にしろよ」と笑われました。
 僕はおやじに言いました。「おやじ、5年間はほめられても、けなされてもいいから、5年間続けよう」と。
 これ、おかしいんですよ。島の人は、半分はほめます。半分はけなします。そういう島の傾向性はわかってました。ですから、そういう周りに左右されないで、なぜ大事なのかということを大事にしていこうと。5年、10年たてば、僕がなぜ島に帰ったかということがわかるよと。
 おやじは、理解不能でございました。大学、せっかく仕送りして頑張っておまえ出したのに、頑張って県庁の職員になってくれよと。本当に「東京でちょっと頑張ってくれよ」と真剣に言ってましたから。「それが、帰ってきて農業。何を考えているんだ、おまえは。同級生4名の中でやっと頑張って大学に行かして」、もう本当にそんな思いがひしひしと伝わってきましたから。でも、僕は絶対に、「5年、10年たてばわかるよ」と、「都会にもうなくなって島にあるものがあるんだ」と。僕は、その説明をしました。
 1年目は、さっき言ったみたいに小さな畑でございましたので、4日で終わりました。まだ援農塾という名前もつきませんでした。音楽をやっている関係で、音楽の仲間がいっぱい来てました。津軽三味線の人、アフリカの太鼓の人、そして三線の人、キーボードを弾く人。
 昔、プリンセスプリンセスという有名な女性の5人組バンドがあったんですが、映画で一緒に共演した関係があって、キビ刈りの話をしましたら「行ってみたい」ということで、レギュラーで丸々4日間、彼女が来てくれた。そういうこともあって、NHKも来てくれたというようなこともあったんですけれども。
 そういう流れの中で4日で終わった。ただ終わっただけではおもしろくないということで、音楽の仲間がいるんだから、即興バンドをつくって、それで交流コンサートをしたらどうだろうかと。無料でみんなを呼んで、キビ刈りのときにつくった歌とか、あと島の人たちのおじいちゃん、おばあちゃんの踊りとかをみんなで発表しようよ。交流コンサートをしようと。我々、即興バンドの名前を「筋肉痛ズ」というバンド名をつけまして、筋肉痛、痛んだ体で演奏しますと。実際に津軽三味線の和田さんという人は、三味線弾きながらだんだん手がつってきて、「あたたたたっ」みたいな、最後は手がつってましたけれども。
 そういう流れの中で、おもしろい現象が起きました。どういうことかというと、キビ畑やっていた人たちが帰るときに、「ありがとうございました」と、コンサートで言ったんです。公民館長さんが、「皆さんが来てくれて、とてもよかった。ありがとうございました。」と言いました。そして、おじいちゃん、おばあちゃんが、「みんなのおかげでこのキビ畑が活気が出たと。ありがとうございました」と言いました。精糖工場の職員がやってきて、工場長含めてみんなで応援して、「本当に皆さんのおかげで、何か元気が出た。ありがとうございました」と言いました。みんなが「ありがとうございました」というふうに言った。そのところに僕は、これが本当の島おこしなんじゃないかと思ったんです。
 「来てください」ではないんですよね。自分たちは、このサトウキビという聖なる難儀を満喫しようと。「満喫してみませんか」と呼びかけるわけです。呼びかけなんですね。
 ここに本があります。「歩く詩人」という私の2冊目の本。ここにちょうどキビ畑の話が書いてありますが、詩があります。それは「風の旅人」という詩でございまして、こういうふうなくだりになっているんですね。
「前略 援農塾生が帰り なんだか遅い朝 頭にタオルを巻かないと雰囲気が出ないんだ
 手のひらの痛み、体中のきしみ かすかに記憶として甦るのは 朝から晩までキビ刈りの話し 大自然との格闘の日々 暗い朝から書き続けた原稿の日々 目が覚めるといつもの生活が待っていたんだ もう一度みんなに遭いたいと願うけれど それは無理な話しだ
 不思議だなあ この僕が 一番のホームシックに かかっているみたいだ
 ホームシック! そう、あのメンバーと過ごした あの素敵な日々に 僕の想いが駆けていくんだ でもそれは「帰りたい」ということでなく 「戻りたい」ということでもない
 あの企画が大成功であったということ その企画のど真ン中に 確かに自分がいたということだ これを「島おこし」と言うのなら なんと素敵なことだろう
 否!! 本来の「島の活性化」や「生き様」すべてが こういう「出会い」と「歓喜(よろこび)」に満ち溢れてなければいけないと いうことか
 目が覚めると誰もいない 今はもう晴れた島に畑と同じ風が優しくただ吹きすぎるだけだ
 風はいつも海の向こう そう南から吹いてくる 風は南から吹いてくる 南島詩人」と、こう書きました。
 おそらくきょうは皆さん、いろいろな現場で、いろいろな地域で、そういう形で頑張っていらっしゃるというふうに思います。きょうは、いろいろそういう事例も含めながら、具体的な提案もさせてもらいながら、この残りの時間を使っていきたいというふうに思っておりますので、最後までおつき合いください。よろしくお願いします。
 では、横笛で1曲ちょっと演奏してみたいと思います。拍手をよろしくお願いします。
(拍 手)
 せっかくでございますので、八重山の子守唄を、朝から子守唄を吹いて皆さんを寝かせようというわけではありませんが、八重山の子守唄。僕が一番こよなく愛している「月ぬかいしゃ節」を1曲吹かせてもらいたいと思います。どうか吹き終わった後に、皆さんの目がぱっちりとあいていることを。本当に子守唄にならないように、気をつけて吹いてみたいと思いますので、よろしくお願いします。
 (演 奏)
 ありがとうございました。


島おこしは子どものときから始まっている

 僕自身は、ちょっと前半戦は小浜島での活動のことを中心にお話をします。せっかく白板もありますので、いろいろと皆さんからも質問を受けながらというふうに思っていますけれども。
 周囲が16キロの島。僕は、まず小浜島という島のことを語らなければいけないような気がしますね。どうでしょうか、きょうは八重山からも大勢来ている……大勢ですかね。八重山からいらっしゃいますか。
 実は、八重山の小浜島という島。「ちゅらさん」で有名になりましたので、知られることになりましたが、「ちゅらさん」が来るまでは、今僕が話したとおりのような小さな島でございまして、あまり知られてない島でございました。
 そうですね。もう1個だけ聞きましょうか。講演会、僕のこういうお話、もうかつて聞いたことがあるという方、どのくらいいらっしゃいますでしょうか。
 はい。ありがとうございます。
 では、初めてという方いらっしゃいますか。圧倒的ですね。ありがとうございます。わかりました。
 平田大一という名前はちょこっと聞いたことあるけれども、という方は大体僕の顔を見ると、「あら、若いわね〜」という感じの反応をしますけれども、36歳ということでございます。 36歳。僕は、決して若くはないというふうに思います。もっと言うと、島おこしは子供のときから始まっていると、こういうふうに思ってます。人づくりの種をまくというのが、私の信条です。
 実は、僕がこの島おこしの活動をしたきっかけというのは、うちの島でのことがとても大きいんですね。うちの島にはリゾートホテルがありました。冒頭申し上げたとおり、そのリゾートホテルのイメージがとても強くて、農業の島というような印象は全くありませんでしたけれども、僕はこの周囲16キロ、人口500名、軒数は大体224軒という。村のはじからはじまで歩いて3分47秒で通り抜けるという小さなその島で、同級生4名で過ごしました。本当に「ちゅらさん」に出てきた「えりぃ」のような、ヤギと戯れながらという、本当にそういう学校生活を過ごしておりました。
 ですから、その島を小学校、中学校を出まして、その後八重山高校というところに進学をいたしました。同級生にビギンという3人組がいました。あの年代だとわかってもらえばいいと思います。昭和43年の申年生まれ。昨年、年男でいい男でございましたけれども。
 その八重山高校を卒業しまして、大学は東京にあります和光大学という文学を勉強しに行きました。近現代の詩・小説。そこで私は宮沢賢治の詩に出会います。
 宮沢賢治は皆さんご存知のとおり、この岩手を拠点としていろいろな童話、創作活動、詩活動をやっておりましたが、彼はある意味でいうならば天文学者であり、そして地質学者であり、なんと農業も非常に造詣の深い詩人でございました。
 彼が書いた「農業芸術概論」、皆さん、これ聞いたことありますか。知ってますか。「農業芸術概論」というすばらしい論文があるんですよ。みんな詩人だというイメージが強いですが、彼はなんと博士だったんですね。それも、農業をやっている人は芸術家であるという、本当に結論だけ言うと、そういうことなんです。つまり、このアーティストが自分の作品をつくるように、なんと農業をやっている人たちがとっている作物の畑、これは作品なんだと。こういうふうに彼は位置づける。
 潮の干満、気圧の高低、月の満ち欠け。そういう自然の営みの中から生きる道をさがし、それを作品につなげていくのが、この農業という仕事をしている人たちなんだと。だから、実際に貧しくてなかなか勉強ができないという子供たちのために、彼は「皆さんのお父さん、お母さんは立派ですよ」と一生懸命語りながら、農業をやっているお父さん、お母さんを持つ子供たちに語りかけながら、皆さんのお父さん、お母さんはすごい立派なアーティストなんだと、芸術家なんだということを、彼は子供たちに言っていたわけですね。
 僕は「農業芸術概論」を勉強したときに、うちの島でのことがすぐ思い出されました。賢治は確かにすごいと思いました。
 僕も「南島詩人」という名前で、18歳のときから東京の小さな四谷の「コタン」というライブハウスで、詩の朗読のひとり舞台をやっておりました。南島詩人ひとり舞台。そのときに、非常に島のことを思い出して書いたのが、そういうまるで賢治と同じような気持ちだったわけですね。
 島の人たちはみんな詩人であり、芸術家であり、そして表現者であり、天文学者であり、何よりも立派な評論家でもあると思ってました。その「南島詩人」というのは、文字でただ詩を伝えるだけでなくて、横笛で詩を奏でる、踊りで詩を舞う。そして、いろいろな形の詩の表現形態というのが南島詩人なんだと僕は思ったんですね。うちの島はなんてすごい島なんだろうと思うのが、始まりのきっかけでございました。
 そのきっかけがあって20歳、大学4年生のころですね。ちょうど63大学の対抗のバトルコンサートみたいなのがありまして、僕はそれで詩の表現で出ました。見事勝ち抜いて、63大学のトップと言われてます「ベストプレーヤーズ賞」というのをもらったんです。それをきっかけに、「南島詩人」という名前でもって、こういう活動を始めることになりました。
 よく私はお話をしますが、なぜ僕はこんなに島に対して思いがあるのか。理由は簡単です。うちが民宿をやっていたからです。民宿をやっている家というのは、どんどんいろいろな人が外から来るわけですよ。泊まりに来る。それで夜はもちろん宴会になったり、その中で各地域のお話を聞く機会が多いわけなんです。東京の人、北海道の人、果てはなんと海外から来る人の話も聞けます。子供心に、そういう話を聞くのが大好きでした。聞いているうちに、自分もそのまちを旅をしている気分になりました。知らず知らずのうちに、心の中の地図がどんどん広くなっていく。
 海にへだたれた小さな島という認識はなくて、むしろ海は道なんだと。その道を渡って来る人たちがいると。昔の本当に大琉球の大航海時代の「レキオス」と呼ばれた人たちのような生き方、海を道としてさまざまな国々と交流を結ぶ、ああいう人たちの生き方みたいなことを、この島にいながらにして学べたのは、うちが民宿だったからです。
 僕は、島に帰って始めたことの一つにこれがありました。うちの島を民宿みたいにしちゃおう。子供たちには交流が大事なんだと。いろいろな地域のいろいろな話を公民館でやってもらう。無料でそれを開く。いろいろな音楽を、いろいろな歌を、来てもらって演奏してもらって、生の音を聞いてもらう。
 友達になったアーティストに、「うちの民宿に遊びに来ない?」って言って、「どうせ来るんだったら、アルベルト君、ギター持ってきてよ」と言って、彼がギター持ってきて、それで「風の道」という曲を一緒につくりました。これを発表する、共演して見せる。一流のアーティスト、プロのミュージシャンとうちの島のお兄ちゃんが一緒に共演している。これだけでインパクトあるわけなんです。
 それで僕は、太鼓と笛と三線で共演しますから、うちの島の音楽は世界の音楽と共演ができる音楽なんだということをまず知ってもらう。そういう交流の中で、子供たちの中に胸に広がる心の地図がどんどん広がっていけばいいと、こう思いました。

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