先島諸島の先史時代

ページ番号1009722  更新日 2024年1月11日

印刷大きな文字で印刷

はじめに

先史時代の先島諸島(宮古・八重山)を範囲とする南琉球圏は、沖縄・奄美諸島を指す北琉球圏と異なる文化を有していました。その最も特徴的なのは、北琉球圏では九州をはじめとする縄文文化の影響を受け、土器が使用されはじめて以降、先史時代をとおして連綿と土器を使用し続けます。
これに対し、南琉球圏においては縄文文化の影響を受けることなく、土器が使われてしばらくすると、未発見の空白期をはさんで土器を使用しない文化が現れ、その後、歴史時代になると再び土器が使用されるようになります。
このように、南琉球圏の先史時代には"土器→無土器→土器"という、一見して文化の逆転を思わせるような現象が起きています。ここではその中でも先島諸島の先史時代について、前期・後期(安里1989)の2時期に分けて解説します。なお、先島諸島は多くの嶋々で構成されていることから、その位置関係が理解できるように、ここでは"遺跡名(島名)"として記載しました。

南琉球圏前期(下田原期)

南琉球圏の前期は下田原期(金武 1989)とも称され、現時点で南琉球圏において最も古く人類が生活した時期にあたります。その年代は、放射性炭素年代測定により3,500~4,300年前としています。遺跡は海に面した砂丘後背、標高10m前後の赤土上に立地しています。遺跡数は現時点で15か所が知られており、分布は八重山全域と宮古では多良間島の多良間添道遺跡に限られています。
これまで明確な住居跡は確認されていませんが、大田原遺跡(石垣島)では竪穴遺構や平地住居跡と思われる遺構が検出され、下田原貝塚(波照間島)においては、多くの柱穴や炉跡が確認されていることから、柱を用いた竪穴住居や平地住居が存在した可能性があります(写真1)。
出土遺物は、牛角状の突起を持つ下田原式土器(写真2)や石器(石斧、敲石、磨石、石皿、石製ドリル)(写真3)、貝・骨製品等の人工遺物に加え、自然遺物では魚骨・貝類のほかイノシシの骨も多く出土しています。中でもピュウッタ遺跡(石垣島)からは、様々な器種や文様の下田原式土器が出土しています。
なお、トゥグル浜遺跡(与那国島)からは土器が確認されていませんが、石器や骨製品などの種類や組成から、下田原期の文化を有していたと考えられています(写真4)。なお、近年の調査成果として、白保竿根田原洞穴遺跡(石垣島)からは、約2万年前からグスク時代までの遺物を含む堆積層が発見され、その中に下田原期の層が確認されています。
遺物は土器や磨石等の石器のほか、この時期では初となる人骨も得られており、出土状況から崖葬墓としての性格が想定されています。
この文化のルーツについては、縄文文化の影響がみられないことと、中国南部や台湾などの出土遺物に一部共通点があることから、南方からの伝播が想定されていますが、土器形式については明確な関連性が見いだせず、詳細はよくわかっていません。

写真:下田原貝塚
写真1 下田原貝塚(波照間島)
写真:土器
写真2 下田原式土器(下田原貝塚出土)
写真:石器
写真3 さまざまな石器(下田原貝塚出土)
写真:トゥグル浜遺跡
写真4 トゥグル浜遺跡(与那国島)

南琉球圏後期(無土器期)

地図:南北琉球
図1 南北琉球の先史時代文化圏


前期の下田原期が終わると、約2,000年間の人類が生活した痕跡が見当たらない空白期を経て、土器を使用しない南琉球圏後期とする無土器期の文化が展開されます。この状況は全国的に見ても特殊で、大田原遺跡・神田貝塚(石垣市)、下田原貝塚・大泊浜貝塚(波照間島)(写真5)の発掘調査によって、層位学的に先後関係が確認されています。その年代は放射性炭素年代測定により約1,800年前~12世紀頃とされ、分布は先島諸島全域におよびます。

写真:大泊浜貝塚
写真5 大泊浜貝塚(波照間島)
写真:浦底遺跡
写真6 浦底遺跡(宮古島)

遺跡の立地は、海岸沿いや河口域の標高5m以下の砂丘にあり、八重山において現時点で約50遺跡、宮古で4遺跡が確認されています。遺構は大泊浜貝塚(波照間島)で礫敷きの住居跡や炉跡、カイジ浜貝塚(竹富島)では柱穴が検出されていることから、礫床敷住居や掘立柱建物を住居としていたことがわかります。そこから多くの貝殻や魚骨に混在する形で、多様な石器や貝製品のほか、この時期を特徴づけるシャコガイ製の貝斧が出土するようになります。浦底遺跡(宮古島)(写真6)からは約200点の貝斧が出土しており、サイズや形状から、用途により使い分けがされていた可能性があります(写真7)。

写真:貝斧
写真7 貝斧出土状況(浦底遺跡)
写真:集石遺構
写真8 集石遺構検出状況(浦底遺跡)

また、仲間第一貝塚(西表島)では、中国唐時代(7~10世紀)の開元通寶が表面採集により1点得られ(金武1974)、崎枝赤崎貝塚(石垣島)からは発掘により33点が出土しています。これにより、開元通寶が後期(無土器期)に位置づけられることが明らかになりました。
食料は多くを海に依存していたとみられ、魚介類が多数を占めていますが、イノシシの骨も一定量得られています。その調理法として、遺跡から焼けた石やサンゴ、貝殻、木炭が含まれた黒色の砂が、レンズ状に堆積する状況が確認されることから、熱した石を用いて食料を蒸し焼きにする、焼石調理法(ストーンボイリング)が行われていたことが想定されています(写真8)(安里1987)。
グスク時代に近づくと、大泊浜貝塚(波照間島)等で、海外との交易を示す中国産白磁玉縁碗や長崎産滑石製石鍋、徳之島産カムィヤキが出土するようになることで、先島の先史時代は終わりを告げます。

もっと詳しく知るために

  • 安里嗣淳 1987 「沖縄・先島の考古学」 『月刊考古学ジャーナル』No.284 ニューサイエンス社
  • 安里嗣淳 1989 「南琉球先史文化圏における無土器新石器期の位置」 『第2回琉中歴史関係国際学術会議報告 琉中歴史関係論文集』 琉中歴史関係国際学術会議実行委員会
  • 安里嗣淳・春成秀爾 1995 「西表島・仲間第一貝塚の調査概要」 『沖縄県教育庁文化課紀要』第11号 沖縄県教育庁文化課
  • アラフ遺跡発掘調査団 2003 『アラフ遺跡調査研究Ⅰ 沖縄県宮古島アラフ遺跡発掘調査報告』 アラフ遺跡発掘調査団
  • 石垣市教育委員会 1982 『大田原遺跡 沖縄県石垣市名蔵・大田原遺跡発掘調査報告書』 石垣市文化財調査報告書第4号 石垣市教育委員会
  • 石垣市教育委員会 1987 『崎枝赤崎貝塚 沖縄県石垣市崎枝赤崎貝塚発掘調査報告書』 石垣市文化財発掘調査報告書第10号 石垣市教育委員会
  • 石垣市教育委員会 1997 『名蔵貝塚ほか発掘調査報告 名蔵貝塚・ピュウツタ遺跡発掘調査報告書』 石垣市文化財発掘調査報告書第22号 石垣市教育委員会
  • 沖縄県教育委員会 1979 『石垣島の遺跡 詳細分布調査報告書』 沖縄県文化財調査報告書第22集 沖縄県教育委員会
  • 沖縄県教育委員会 1980 『竹富町・与那国町の遺跡 詳細分布調査報告書』 沖縄県文化財調査報告書第29集 沖縄県教育委員会
  • 沖縄県教育委員会 1980 『石垣島県道改良工事に伴う発掘調査報告 大田原遺跡 神田貝塚 ヤマバレ遺跡』 沖縄県文化財調査報告書第30集 沖縄県教育委員会
  • 沖縄県教育委員会 1983 『宮古の遺跡 詳細分布調査報告書』 沖縄県文化財調査報告書第54集 沖縄県教育委員会
  • 沖縄県教育委員会 1984 『宮古城辺町長間底遺跡発掘調査報告』 沖縄県文化財調査報告書第56集 沖縄県教育委員会
  • 沖縄県教育委員会 1985 『与那国島トゥグル浜遺跡 与那国空港整備工事に伴う緊急発掘調査報告』 沖縄県文化財調査報告書第66集 沖縄県教育委員会
  • 沖縄県教育委員会 1986 『下田原貝塚・大泊浜貝塚第1・2・3次発掘調査報告』 沖縄県文化財調査報告書第74集 沖縄県教育委員会
  • 沖縄県教育委員会 1994 『竹富町カイジ浜貝塚ー竹富町 周道路建設工事に伴う緊急発掘調査報告』 沖縄県文化財調査報告書第115集 沖縄県教育委員会
  • 沖縄県教育委員会 2003 『沖縄県史 各論編第2巻 考古』 沖縄県教育委員会
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター 2013 『白保竿根田原洞穴遺跡 新石垣空港建設工事に伴う発掘調査報告書』 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第65集 沖縄県立埋蔵文化財センター
  • 金武正紀 1974 「仲間第一貝塚出土の開元通寶について」 『南島考古だより』第13号 沖縄考古学会
  • 金武正紀 1989 「考古学から見た宮古・八重山の歴史」 第175回博物館講座 沖縄県立博物館
  • 城辺町教育委員会 1990 『THE URASOKO SITE,A Sketch of the Excavation in Photographs』 城辺町教育委員会
  • 多良間村教育委員会 1993 『多良間村の遺跡 村内遺跡詳細分布調査報告書』 多良間村文化財調査報告書第10集 多良間村教育委員会
  • 多良間村教育委員会 1996 『多良間添道遺跡 発掘調査報告』 多良間村文化財調査報告書第11集 多良間村教育委員会

(2015年 仲座久宜)

このページに関するお問い合わせ

沖縄県 沖縄県教育庁 埋蔵文化財センター
〒903-0125 沖縄県中頭郡西原町上原193-7
電話:098-835-8751 ファクス:098-835-8754
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。