島々のはなし
目 次

1 伊平屋島
A 無蔵水由来
  B 屋蔵大主

2 伊是名島 
A 降神島
  B 尚円王

3 伊江島の伝説 力玉那覇

4 水納島の伝説 水納島と瀬底島

5 津堅島の伝説 津堅の始まり

6 久高島の伝説 黄金の瓜種

7 粟国島の伝説 神里口説由来

8 渡名喜島の伝説 入砂島の山羊神

9 阿嘉島・慶留間島 慶留間御嶽由来

10 渡嘉敷島 鬼慶良間

11 久米島 笠末若茶良

12 北大東島 大東島の名

13 南大東島 南大東島と八丈島移民

 

14 宮古島 宮古島の始まり

○ 池間島 卵から生まれた十二神

○ 大神島の伝説 海賊の宝探し

15 来間島 来間の島建て

16 伊良部島・下地島 ヨナイタマ通り池

17 水納島 百合若大臣

18 石垣島 オヤケ赤蜂

19 竹富島 星砂の由来

20 西表島 西表の別れ浜

21 小浜島 ザンの牛引き

22 鳩間島 武士の家

23 黒島 雨の神

24 新城島 夜烏の教え

25 波照間島 波照間の新生

26 与那国島 与那国の猫小


このページに掲載した民話は、沖縄国際大学遠藤庄治名誉教授よりご提 供いただきました。
また掲載話の著作権は、遠藤庄治名誉教授にあります。無断での転載はご遠慮ください。

 

1  伊平屋島

 A  無蔵水由来

 今から二、三百年ほど前の話だが、旅の漁師が伊平屋島の田名へ来て、二、三か月の間漁をしながら生活していた。
 そのうちに、トゾ屋の新垣マジルーという名の大層美しい娘と親しくなり、やがて二人は夫婦になった。
 ある日、漁師が田名から出て行ったとき大嵐になり遭難してしまった。
 新垣マジルーがひと月待ってもふた月待っても漁師は帰ってこなかった。
 田名の若者たちは「今まで二か月たっても帰ってこないのだから、あれはもう亡くなって帰ってこないよ。だから俺の妻(とぅじ)になれ。」と言い寄った。
 新垣マジルーは「自分の夫は帰ってきますよ。必ず帰ってきますとも。だからあなた方の妻にはなりません。」と断ったが、やはり若者達は毎日夕方になると入れ代わり立ち代わりやってきては新垣マジルーに言い寄った。
 新垣マジルーはその男たちを避けるため、家から逃げ出して、伊平屋島の西海岸の海近くにある大きな岩に隠れ、その岩の上で機を織りながら、夫が帰るのを信じて待つことにした。

 それからひと月が過ぎた。
 機を織りながら沖の方を見ると、遠い沖の方からやって来る小舟が見えた。
 その小舟に乗っている漁師は、見覚えのある葵蒲笠(くばがさ)を被っていた。
 それは、三月ぶりに島に帰ってきた夫だった。
 伊平屋島では、新垣マジルーが人目に隠れて機を織っていた巨大な岩を無蔵水(んぞみじ)と呼んでおり、田名の村では、この二人を歌に残している。

 大田名(うふだな)ぬ後(くし)に無蔵水ぬあしが、夫(うとぅ)振(ふ)ゆる女(あんぐわ)ありに浴(あ)みし
 〔田名の後に無蔵水があるが夫を捨てる女はあれを浴びせ見習わせよ〕

 夫(うとぅ)ん振(ふり)やびらん人(ひとぅ)ん振(ふり)やびらん、今(なま)童(わらび)やてぃる一人(ちゅい)や振(ふ)たる
 〔夫も他の人も振っていません、今子どもだから一人だけ振ったのです。〕

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 B 屋蔵大主

 昔、伊平屋島の我喜屋に屋蔵大主(やぐらうふすー)という良く働く若者が住んでおり、この人が役人になると飢饉のときに備えて島の蓄え倉に米の籾(もみ)を蓄えておった。
 ある年、非常な日照りが続いて旱魃(かんばつ)になり農作物が作れなくなったとき、屋蔵大主は「この蓄え倉に米は沢山あるが自由に食わしたら後は食う物がなく島人は飢え死にする。」と思ったので島の人達に少しずつ配ることにした。
 屋蔵大主は、次に米が取れるまでなんとか食いつないでもらうおうと思って少しずつ配ったのだが、島の若い連中は、腹一杯食べられなかったので悪いことを企んだ。
 「この蓄え倉には米は沢山あるのになんでもっと多く分けてくれないか。こんな少しでは仕事ができない。あいつがいるうちは少ししか食えないから、あいつを打ち殺して米を分けて食おう。」
 屋蔵大主は働き者だから昼はうんと働いた。
 夜になって、くたびれてぐっすり眠っておると、白髪のお爺さんの姿をした神様が現れて「お前はこの島に住んでおったら命が危うくなる。舟は私が用意しておいたからこの島を立ち去りなさい。」と言う夢を見た。
 飛び起きてみたら夢だったのでまた寝たらまた同じ夢を見た。
 浜に行ってみたら、浜には夢のお告げのとおり舟が用意してあった。
 その舟に乗ると何日かかかって今帰仁に着いた。
 そこにしばらく住んでいると、また命を狙われるようになった。
 すると、また夢の中に神様が現れて「お前はこっちにいたら生命が危うくなる。ここから舟を出して西崎、残波崎、那覇の崎、糸満の崎、喜屋武崎と岬を巡って行きなさい。その五つの岬を巡って着いたところがお前の暮らせる国だ。」と言った。
 夢のお告げの通り、屋蔵大主は舟に乗って五つの岬を巡って行くと舟は佐敷に着いた。
 そこで毎日魚を捕りそれを売って暮らすことにした。

 そのころ佐敷の佐敷按司(さしきあじ)には娘が一人いたが、後継ぎの男の子はいなかったので後継ぎになる娘の婿を探そうと思って三世相(さんじんそう)に占ってもらうと「何月何日の朝六時頃に家の門の前を通る者をあなたの婿に選びなさい。」と言われたので、その日の朝は六時になる前から佐敷按司の家来たちが門の前で番をして通る人を待っておった。
 すると、毎日六時頃に海から取った魚を売って歩いている屋蔵大主が、ちょうどその時間に佐敷按司の門の前を通った。
 家来たちは早速「この人がこっちの婿になる人だ。」と屋蔵大主を捕まえ屋敷の中に引きずり込んで佐敷按司の前に連れて行った。
 按司は一目見ると貧乏な漁師なのであまり気が進まなかったが、三世相が言ったことだから「占いではお前が私の娘の婿になる者となっているから、婿になりなさい。」と言った。
 屋蔵大主は大変驚いて「私はもう下層の身分から出ていますから、あなた様の婿になることできません。」と断った。
 按司の方も貧乏な漁師を婿にはしたくなかったから、この男を娘の婿にするのは止めようと思った。
 すると、按司の娘が出てきて「この人を私のお婿さんにしてください。」と強く望んだので、按司も屋蔵大主を娘の婿にした。
 この屋蔵大主と佐敷按司の娘から生まれた子どもが三山に分かれていた琉球を統一する尚巴志王の父親である佐銘川大主だった。

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2 伊是名島

 A 降神島

 伊是名島の港に船が近づくと、その沖合の海中に荒々しい降神島(うりがみじま)と呼ばれる岩礁がある。
 伊是名島の人達はこの岩礁をその名の通り大昔に天から神が降りてきた島だと伝えている。
 この岩礁に降りた神が伊是名島のアハラ御嶽まで来ると世は明るくなったが、やがて伊平屋の籠屋(くまや)の洞窟に籠もったので、世はまた暗くなった。
 人々はまた世を明るくしないといけないと七人の神を祀る神人(かみんちゅ)が籠屋の洞窟に行って願うと、神様は籠屋の洞窟から出たので、再び世は明るくなったという。

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 B 尚円王

 若いころ北(にし)ぬ松金(まちがに)とも金丸(かなまる)とも呼ばれた尚円王は伊是名島の諸見に生まれた。
 今そこは御臍所(みほそどころ)と呼ばれ公園になっている。
 尚円王は金丸と呼ばれた若い時からとても徳があって、諸見の千原の谷に田を作っていた。
 その田は不思議なことに近くにある田の水が涸れた日照りの年でも水があった。
 それは、働き者の金丸が水を漏らさないようにしっかりした畦を作り、また好男子だった金丸を慕っている勢理客の娘たちが夜になるとやってきて水を桶に汲んで金丸の田んぼに水を入れいたからだった。
 そのころ歌われていた歌が通水節(かいみじぶし)と呼ばれている。

 通水(かいみじ)ぬ池(いち)や一人(ひちゅい)んじしらん 乗(ぬ)い馬(うま)とぅ鞍(くら)とぅ主(ぬし)とぅ三人(みっちゃい)
 〔通水の池を知られず一人で越えた。知っているのは馬と鞍と主である自分とただ三人〕

 凪(とり)ぬ伊平屋嶽(いはだき)や浮(う)さがてぃる見ゆる 遊(あし)び浮ちゃがゆる我玉黄金(わたまくがに)
 〔凪のときの伊平屋嶽は浮きあがって見える。可愛い我が子の踊る姿ははなやかに見える〕

 北(にし)ぬ松金(まちがに)がいんちゃ着物(じん)召(み)そち うじゃんなり姿(しがた)拝(うが)みぶさぬ
 〔北の松金が短い着物を召されている 温厚な姿を拝みたいもんだ〕

 若者たちは、水は下から上に上がるはずがないのに上の方にある金丸の田にばかり水があるので、その田を逆田(さかた)と呼び、また島の娘たちがモーアシビのときに金丸とばかり遊んでいるので、金丸を憎んで殺す相談を始めた。
 それを知った金丸は、二十五歳のときに伊是名島を出て国頭の奥間に渡って行って農業をしていると、そこでも金丸の田畑は徳が高いので豊作が続いた。
 すると、奥間の人たちは金丸を憎んで、奥間鍛冶屋(うくまかんじゃーやー)に金丸を殺す刀を作ってくれと頼んだ。
 奥間鍛冶屋は、金丸を見どころのある若者と思っていたので、金丸を呼んで「金丸、ここの若者たちがあなたを殺すといって私に武器を作らせている。あなたはここから早く逃げなさい。」と教えた。

 奧間を出た金丸は首里に行って当時の尚泰久王に仕えると、たちまち出世して西原の内間の地頭になり、中国との交易を任される御物城鎖側官になった。
 ところが尚泰久王が亡くなって尚徳王が王様になると金丸を遠ざけるようになったので、金丸は内間の内間御殿に隠れて首里には出仕しなくなった。
 その尚徳王が久高島に行っているときに不満を持った三司官や按司たちが集まった。
 「あの尚徳王では、琉球国は滅びてしまう。だれかほかの人を王様にしよう。」と相談したが、次の王を誰にするかまとまらなかった。
 そのとき、知恵のある安里比屋という人が突然、「物を食べさせてくれる人が私たちの御主、私たちの王です。御物城鎖側官の金丸を王にしたらどうですか。」と言ったので、その一言で金丸を王にさせることが決まった。
 金丸はそのとき、海岸で釣りをしていたが、首里の方から大勢の人が来るのを見て「私を嫌っている尚徳王の家来たちが私を殺しにきたのだな。」と思ったので、海に飛び込んで死のうとした。
 すると、海の中の岩が盛り上がってきたので金丸は死ぬことができなかった。
 今その金丸を助けた岩を内間高干瀬(うちまたかびし)と言っている。
 そこに来たのは、金丸を王様にするために迎えにきた人たちだったので、金丸は王様の乗る立派な駕籠に乗せられて首里城に行き、尚円王という王様になった。

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3 伊江島の伝説 力玉那覇

 昔、伊江島の東村(あーりむら)に力玉那覇(ちからたんなーぱ)という大男がいた。
 その男は子どものころから体が大きくて力持ちだった。
 お母さんがお味噌を作るためにシンメーナービに大豆をいっぱい煮て、ちょっと用事で家を出ている間に、玉那覇(たんなーぱ)がそのシンメーナービの豆を一人で全部平らげてしまった。
 帰ってきたお母さんが怒って「お前のような子はもう出ていけ。」とひどく叱ると、今度は反抗して家の戸口に一抱えも二抱えもある大きな石を持って来て塞いでしまったそうだ。

 その玉那覇が二十歳になったころ、伊江島は昔から穀類が良くできる島なので、今帰仁の北山王が伊江島を自分の領地にしようとたくさんの船に兵隊を乗せて攻め寄せて来た。
 島の人達が集まって大騒ぎをしていると、玉那覇は「竈(かまど)の中の灰を集め、城山(ぐすくやま)に登って来なさい。」と言った。
 上陸した北山軍が伊江島タッチューとも呼ばれる城山に攻め寄せて来ると玉那覇は「さあ、今だ。灰を投げつけろ。」と言ったので城山の頂上に登っていた伊江島の人達はいっせいに北山軍に灰を投げつけた。
 投げつけられた灰で北山軍は目潰しされ大慌てしていると、玉那覇が城山の頂上から北山軍めがけて、大きな岩を崩しては投げ、崩しては投げしたので、北山軍は今帰仁に逃げ帰った。
 このときの玉那覇の足跡が今も伊江島城山の頂上に残っている。

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4 水納島の伝説 水納島と瀬底島

 昔、世の始めのころ天人(あーまんちゅー)が瀬底(せそこ)と水納島(みんなしま)を棒で担いだら、あまり重いので棒が折れてしまった。
 そのとき瀬底島は東に傾き、水納島はそのまま座ったが、二つの島とも水脈が切れてしまったので、湧水がなくなった。
 人の世になると瀬底島の人達は、水納島を自分達の島だと言い、伊江島の人達も、水納島を自分達の島だと言って争いになった。
 「それなら水納島のまん中に旗を立て、船を漕いで行って先に旗を取ったところのものにしよう。」ということになった。
 その競走では、水納島は伊江島よりも瀬底からの方が近いので瀬底が先に行って旗を掴まえたので、水納島は瀬底のものになった。
 その後のことだが、水納島と伊江島の間にある中之瀬(なかんぜ)を伊江島と本部がそれぞれ自分のものだと言って争った。
 そのときも、船で競走をして先に着いた方のものとしようということになった。
 伊江島の人達は、本部は渡久地から船を出すから勝てるだろうと思っていると、本部の人達の船の方が先に中之瀬に着いたので中之瀬は本部のものになった。
 そのとき、本部の船は水納島から出たから勝ったのだった。
 本部の人達は言った。
 「水納島も本部のうちだよ。」と。

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5 津堅島の伝説 津堅の始まり

 昔、北中城村喜舎場(きしゃば)の村を始めた喜舎場子が、丘の上から東の海を見ると波に隠れたり現れたりする島が見えたので、妹の真志良代(ましらよ)に「あの島なら人が住めるだろう。二人であの島に行って新しく村を建てよう。」と相談した。
 二人はそれから七日の間、斎戒沐浴(さいかいもくよく)して船を出したが、この島は平たい島なので、途中の津堅(ちきん)ドゥと呼ばれる波が荒くなるところまで来ると、波に隠されて島が見えなくなったりしたのでなかなか島に着けず、三回目にようやく波が凪いだので、その島の西の浜に着いた。
 そのとき、喜舎場子が「着(ち)きたる津堅(ちきん)、止(とぅ)またる泊(とまい)。」と言ったので、その島の名を津堅島と言うようになり、その着いた浜を泊浜(とまいばま)と言うようになった。
 またそのとき、濡れていた真志良代の下袴(かかん)を近くの高い石で乾かしたので、今でも二人の子孫がその石を下袴石(かかんいし)と言って拝んでいる。

 津堅島で暮らすようになった二人は、津堅島の中でも両親の住む喜舎場が最も良く見える仲真次(なかまし)バンタと呼ばれる崖の下にあった洞窟に住み、海の物や山の木の実などを食べて暮らしていたが、やがて、その崖の上に家を建てたので、今も津堅の根家(にーや)は仲真次バンタのすぐ上にある。
 なぜそこを仲真次バンタと呼ぶかというと、喜舎場子と妹の真志良代の生まれた家は仲間と言い、その家から分かれた家なので、二人の始めた家を仲間の次の家という意味で、仲真次という姓を名乗ったからだった。
 やがてその家から、前(めー)仲真次、西(いり)仲真次、東(あがり)仲真次、後(くし)仲真次と分家して村が始まり、泊浜の上に仲之御嶽(なかのうたき)が仕立てられた。
 初めに津堅島に渡ってきた喜舎場子は亡くなるとき、「私が死んだら、大地(うふじー)に向かって墓をつくってくれ。」という遺言を残したので、墓もまた喜舎場に向けて造られた。
 戦後も津堅島には、九月十八日に喜舎場の人達が喜舎場子の墓にお参りに行き、また津堅からはカラスグヮーを手土産に持って喜舎場子の子孫の人たちが喜舎場を訪問する。
 そのとき、津堅では大豆が取れないので豆腐を御馳走し、また、四年に一度は、津堅島の人達が鰹(かつお)の一本釣りに使うチンブク竹を三十本か四十本ほどお土産に持って帰ってもらっていたということである。

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6 久高島の伝説 黄金の瓜種

 玉城村仲村渠(なかんだかり)の人達が伝える話では、東方からやってきたアマミキヨの一行は、一年ほどの間久高島に滞在し、その後で玉城村藪薩(やぶさつ)の浦原(うらばる)のヤハラヅカサに上陸し、仲村渠のミントンに住んだという。
 そのミントンの分家である百名(ひゃくな)の本部家(もとぶけ)に白樽(しらたる)という男子がおり、ミントンの娘を妻にしていた。
 ある日、白樽が妻と共に山に登ると東方にある久高島が見えた。
 ちょうどそのころは戦乱の世であったので、あの島ならば戦世(いくさよ)を逃れて暮らせるだろうと、小舟に乗ってその島に渡った。
 島を巡ると土地は肥えていたが水が乏しく稲作ができないので、二人は困って伊敷浜(いしきばま)に出て祈ると、沖の方から漂ってくる白い壺があった。
 浜に寄ってきた壺を白樽が拾おうと思っても、その度に壺は沖に流れて行くので拾うことができなかった。
 そこで白樽の妻が斎戒沐浴(さいかいもくよく)した後で、着物の袖を広げると白い壺は自ずからその袖の中に入った。
 壺を開けて見ると小麦、裸麦、大麦の三種の麦とうるち粟、餅粟、わせ粟の三種の粟、さらに小豆が入っていた。
 これが沖縄の五穀の始まりという。

 この白樽夫婦が始めた家が久高島の外間根人(ほかまにーんちゅ)の家となった。
 白樽夫婦には、真仁牛(まにうし)という長男と於戸兼(おとがね)という長女、また思樽兼(おみたるかね)という次女がいた。
 次女の思樽兼は、容姿に優れており、王城に召されて玉城王の側室となり、王に深く寵愛されて懐妊した。
 王の妾達は思樽兼を妬み、思樽が人前で放屁(ほうひ)したことを知ると、それを言い立てたのでいたたまれなくなった思樽兼は久高島に帰り、やがて思樽兼は男子を出産した。
 その男子の名を思金松兼(おみかねまつがね)という。
 思金松兼が七歳になったとき、母親の思樽兼に父親は誰かと聞いた。
 思樽兼は「お前には、父親はいない。私一人だけで生んだ子だ。」と言った。
 思金松兼が八歳になると「どんな生き物にも父と母がいるのに父親がいないわけがない。私の父親は誰ですか。お母さんが教えてくれるまではご飯を食べません。」と言って朝夕のご飯を食べないので、思樽兼も隠しておけなくなり、「お前の父親は、玉城王です。しかし、この久高島に暮らしていたお前が王の子だ言っても会ってもらえないだろうと思って、これまで教えないでいました。」と言った。
 思金松兼は、これを聞くと伊敷浜に出て七日の間、父親に会えるようにと天に祈った。

 七日目の朝、沖の方から黄金色に光りながら漂って来るものがあった。
 波打ちぎわに出て袖を広げてすくい取ってみると、それは黄金の瓜種だった。
 思金松兼は早速、父親の玉城王に会うために王城の浦添城に行き、門番に来意を告げたが、海の潮に赤く染まった思金松兼の髪の毛や粗末な着物を見た門番は取り合ってくれなかった。
 しかし、何度も王に会いたいと告げていると、それを見た役人が思金松兼を玉城王の前に連れて行った。
 思金松兼は、懐から黄金の瓜種を取り出すと王に言った。
 「この黄金の瓜種は、大変な宝物ですが、放屁をしない女が植えないと生えません。」
 それを聞いた玉城王は「世に放屁をしない女などいるものか。」と言った。
 すると、思金松兼が「それならなぜ、放屁した私の母を島に帰したのですか。」と言ったので、玉城王はその子が自分の子だと悟った。
 玉城王には、世継ぎの男子がいなかったので、思金松兼を世子(せいし)とし、後に思金松兼は、英祖王統の最後の王である西威王(せいいおう)となった。

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7  粟国島の伝説 神里口説由来

 昔、粟国島の八重村(やえむら)に神里という熱心に農業を励む男が住んでいた。
 ある日、前原にある自分の畑の真中に、大きな黒い真石(まーいし)があって、仕事の邪魔になるのでなんとかして畑の隅に寄せようと思ったが、大きな石なのでどうしても動かすことができなかった。
 すると、そこにこれまで見たこともない杖をついた白髪の老人が現れて、「何をしているのか。」と尋ねた。
 神里は「石が畑の真中にあって作物を作る邪魔になるので畑の隅に寄せようとしています。」と答えると、「それじゃあ私も手伝ってやろう。」と手に持っていた細い杖で突きさすようにして押すと、石はたちまち畑の隅まで動いて行った。
 神里は不思議に思いながらも、その老人にお礼を言って家に帰った。
 その神里には、家から約一キロぐらい離れた糸喜名原(いときなばる)にも広い畑があり、その畑に黍(きび)を植えると丈高く立派に育った。
 その黍が実り始めたころ風が吹き海も荒れてきた。
 神里は心配になり、刈ろうか刈るまいかと思案していたが、まだ実り始めた青い穂だがこの強風ではどうせ風に吹き落とされると一穂二穂と刈りはじめた。
 その時、雷のような大きな音が響いて、以前に畑の石を片づけてくれた白髪の老人が突然現れて「神里よ、なぜそんな青黍を刈るのか。」と尋ねた。
 「次第に風も吹いてくるし、海も波だってきたので、このままでは風に吹き落とされるより青黍だが刈り取るのです。」と言うと、その老人は、「季節で荒れている風で、風に荒れている海だ。この風はしばらくしたら止むだろう。だから黍を刈らずに帰りなさい。」と言った。
 神里は前に石を片づけてくれたことといい、今日の現れ方といい不思議だったので、ハッと気づいて「さようでございますか。天人様(あーまんちゅさま)、それではその証拠となる手印(てじるし)になる品を下さい。」と頼んだ。
 「手印か。お前の願いにまかせて手印をやる。これは来年の三月に畑の周囲に植えておきなさい。ただ、このことは親にも子にも話さないと約束しなさい。」と言って、赤い豆を神里に与えた。

 神里は誰にも話さないと約束していたが、その神様と別れて家に帰る途中の伊座根坂(いざねびら)という所で親しい友人に出会った。
 「どうしてこんなところにいるのか。」と友人が聞くので、ついつい友人に「糸喜名原(いときなばる)で神様に出会って家に帰るのだが、こんなに日が暮れて足もとが暗くて歩くこともできないのだよ。」と話してしまった。
 すると突然あたりが暗闇になり、目も霞んで何も見えなくなったので、神里は友人に話してしまったことを後悔し、天に向かってお詫びのお祈りをすると再び目の前が明るくなった。
 あたりを見ると、今まで話していた友人もおらず、天人からもらった赤い豆もなくなっていた。
 粟国島にはこのとき神里が後悔して歌った神里口説(かんざとくどぅち)が伝えられている。
 この歌は、最初から最後まで間違えずに歌わないと祟りがあると伝えている。

 さてぃも世(ゆ)ぬ中(なか)不思議(ふしぎ)ある 粟国八重村神里(あぐにえいむらかんじゃとぅ)が 作物(ちくい)しみりば人勝(ひとまさ)い
 〔いやはや世の中には不思議なことがある 粟国八重村神里は 作物を作らせては人よりも勝り〕

 粟国原名(あぐにはるな)ぬ糸喜名(いちゅきな)に 黍(ちみ)やたくさん蒔(ま)きうきてぃ 草葉(くさば)二、三度取(とぅ)いたてて
 〔粟国原名の糸喜名に 黍をたくさん蒔きつけて 二、三度雑草を取り除き〕

 丈(たき)ぬ一様(いちよう)二、三尺(にさんじゃく)に 一穂(ちゅふ)とかぎらん皆(みな)揃(する)てぃ 御世(みゆ)ぬ六月(るくがぐ)ゎち二十日頃(はちかぐる)
 〔丈も一様三尺に 一穂も残らず皆揃って 御世の六月二十日頃〕

 風(かじ)んそよそよ吹(ふ)き来(く)りば 海(うみ)や波立(なみだ)ち荒(あ)りてぃ 来(ち)ゅい風(かじ)ん吹(ふ)ちゅんでぃちわみてぃどぅ
 〔風がソヨソヨ吹いて来て 海は波立ち 風も吹くと見極めて〕

 鎌(いらら)くゐじき棒担(ぼーかた)み 伊座根高坂(いざにたかひら)はい登(ぬぶ)てぃ 黍(ちみ)ぬ畑(はたき)に寄(ゆ)いかかてぃ
 〔鎌鍬の道具を持ち棒を担ぎ 伊座根高坂急いで登り 黍の畑に立ち寄って〕

 鎌(いらら)引(ひ)ち抜(ぬ)き棒(ぼー)立(た)てぃてぃ 黍(ちみ)ぬ端々(はたばた)廻(みぐ)たりば 黍(ちみ)や青(おー)さぬ今(なま)んまん
 〔鎌を引き抜き棒を立てて 黍畑の端々まで廻って見ると 黍の穂の色はまだ青いままで〕

 刈(か)ゆか刈(か)らんかやちかたれ 止(や)りん止(や)まらんまじ刈(か)とてぃ 十穂(とぅふ)ん二十穂(はたふ)ん刈(か)ゆるうち
 〔刈るか刈らんか迷ったが、止まない風なのでまず刈って 十穂二十穂と刈っているうちに〕

 天(てぃん)の神様(みさま)ぬ降(う)りみそち ぬがよ神里(かんざとぅ)物(むぬ)知らん あねる青黍(おーちみ)刈(か)い取(とぅ)ゆる
 〔天の神様が降りて来られ どうした神里物を知らん あんな青黍刈り取るか〕

 風(かじ)んそよそよ吹(ふ)きくりば 海(うみ)や波立(なみだ)ち勝(まさ)てぃ来(ちゅ)い風(かじ)ぬ吹(ふ)ちゅんでぃちわみてぃどぅ
 〔風がそよそよ吹い来るし 海は波立ちが激しくなって来るし 風が吹いて来ると見極めて〕

 季節(しち)に荒(あ)りゆる風(かじ)どぅやる 風(かじ)に荒(あ)りゆる波(なみ)どぅやる今年風(くとぅしかじ)ねん宿(やどぅ)に帰(け)り
 〔季節に荒れる風なのだ 風に荒れている波なのだ 今年は嵐はない宿に帰れ〕

 二度(にどぅ)と拝(うが)だる天(てぃん)ぬ御様(みさま) しぐに戻(むどぅ)いやなやびらん天(てぃん)ぬ手印(てぃじるし)給(たび)みそち
 〔二度も拝んだ天の神様 そのまま戻ることは出来ません 天の手印給って下さい〕

 いやが願(にげ)まま取(とぅ)らすぐとぅ 親(うや)とぅん子(くわ)とぅん話(はな)しすな いかに妻(とぅじ)とぅん話(はな)しすな
 〔お前の願いのままに取らせてやるが 親にも子にも話すなよ いかに妻でも話すなよ〕

 いやが畑(はたき)端々(はしばし)に ぐるい廻(みぐ)らち植(う)ゐちきり いやが畑(はたき)に実穂(みほ)ちきら
 〔お前の畑の端々に ぐるりと廻りに植え付けなさい お前の畑に実穂つけよう〕

  明(あ)きて六月(ろくぐわち)我(わ)が降(う)りてぃ 詳細(いさ)に話(はな)しん聞(き)かすぐとぅ 契(ちぎ)り朋友(どぅし)とぅん話(はな)しすな
 〔明けて六月に私が降りて来て 詳細に話を聞かすから 仲のよい友にも話すなよ〕

 別(かわ)りう暇(いとぅま)うんぬきてぃ うりからよいよい歩(あゆ)だりば 伊座根中坂(いざになかひら)寄(ゆ)いかかてぃ
 〔別れにお暇の言葉を申し上げて それからゆっくり歩いていると 伊座根中坂を通りかかると〕

 宿(やどぅ)に戻(むどぅ)ゆる事(くとぅ)やしが やかり朋友(どぅし)びにはい行逢(いちゃ)てぃ ぬがよ神里(かんざとぅ)其処(うま)に居(う)が
 〔宿に戻る途中だったが 同輩の友人にばったり行き逢って どうした神里ここに居るのか〕

 天(てぃん)の神様(みさま)降(う)りみそち 今年(くとぅし)風(かじ)ねん宿(やどぅ)に帰(け)り 宿(やどぅ)戻(むどぅ)ゆる事(くとぅ)やしが
 〔天の神様が降りて来られて 今年は嵐はない宿に帰れと言われ 宿に戻って行く事なんだが〕

 目元暗(みむとぅくら)がり闇(やみ)になてぃ 道(みち)ぬあやしじ拝(うが)まらん なまゆ神里(かんざとぅ)あてぃなしや
 〔目元が暗くなって闇になって 道の綾筋も見えなくなった すぐに神里は気を失い〕

 黍(ちみ)ぬ畑(はたき)に寄(ゆ)い戻(むどぅ)てぃ 天(てぃん)に向(むか)って御拝(みへ)すりば 明(あか)さおーさん拝(うが)まりさ
 〔黍の畑に寄り戻って 天に向かって拝んだら 明るい光が拝まれて〕

  忙(いす)ぢ家(や)ちねはい戻(むどぅ)てぃ うじゅり懐(ふちゅくる)さぐたりば 天(てぃん)ぬ手印(てぃじるし)落(うとぅ)ちねん
 〔にわかに家に急いで戻って 思わず懐をさぐってみると 天の手印は落としてしまっていた〕

 返し 恨(うら)みてぃんちゃすが 我肝(わちむ)さだみ
 〔恨んで見てもどうにもしょうもない 自分の心を恨むほかはない〕

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8 渡名喜島の伝説 入砂島の山羊神

 昔、粟国島に唐の国から鉄の船がやって来て、島の南西端の筆(ふでぃ)ん崎に衝突した。
 筆ん崎の先が折れて流れて行きそうになったので、天人(あーまんちゅ)が天扇(あままーおうじ)であおいで引き寄せようとした。
 それでもどんどん流れて行くので、天人は粟国島とその流れて行く岩に足をかけて引っ張ろうとしたが流れる勢いが強く、天人は間の海に落ちて亡くなってしまった。
 このときの天扇の跡は、今も筆ん崎の北側の崖に残っている。

 この大きな岩がどんどん流されて渡名喜島の真向いまで来た。
 そのころ渡名喜島には首里ぬ主という人がおられて「その島は、私のものだ。」と叫ぶとその岩はそこで止まって、渡名喜島の沖の入砂島(いりすなじま)になった。
 その入砂島では、夜になると入砂の神を祀る中御嶽(なかうたき)から毎晩動物が走り回る音がした。
 その島に蛸やアオサを取りに行って一夜を過ごした人が翌朝起きて中御嶽のあたりを見ると山羊の足跡があった。
 それで入砂島には山羊の姿をした神がいることが分かった。
 だから入砂島では山羊の話をすると祟りがあり、豚や牛は飼えるけれども山羊だけは飼えずにいた。
 入砂島は神がいる島なのでそこに潮干狩に行ったら「神様の島に来ました。無事に潮干狩をさせて下さい。」と合掌した後で島に上がり、また、乱暴な言葉を使ったり大声を出すと祟りがあると言われた。
 あるとき、追い込み漁に行くと大漁だったので、漁師の一人が万歳と叫んだとたんに舟が引っ繰り返り、取った魚は全部海に流されてしまったという。

 渡名喜島は、北に西森と呼ばれる小さな山があり、南には百七十九メートルの大岳がある。
 その間の低地の砂地に集落がある。
 集落の東には美しい砂浜に囲まれたアンジェーラ湾があり、閏年になるとその東の海からアンジェーラ湾の砂浜に入砂の神が着き、シマナオシの行事が行われる。
 そのとき、中御嶽の入砂の神は四キロ彼方の入砂島から船で渡ってくるとも、馬で渡ってくるとも言われる。

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9 阿嘉島・慶留間島 慶留間御嶽由来

 那覇の沖に見る島々を慶良間(けらま)諸島と言う。那覇に一番近く見える島は前慶良間(めーげらま)と呼ばれて渡嘉敷村に属し、その後ろに座間味村に属する島々を後慶良間(くしぎらま)と言った。
 その後慶良間には、北から南にかけて人の住む島が座間味島、阿嘉島、慶留間島の三つがある。
 そのうちの阿嘉島には上地大比屋(うえちおおひや)の次男で上地仁屋(うえちにや)という者がいた。
 身体が大きくて六百斤の石を挙げることができる大力者だった。
 その上地仁屋が外地島(ほかじじま)から脇に抱えて運んできたという長さ一メートルほどで厚さ約二十センチの石は、今も慶留間島の屋号東(あがり)の大村家の履物を脱ぐ石になっている。

 そのころ阿嘉の港の先に、大きな鮫が現れて通る船を襲っては人を食っていた。
 六月の稲の豊作を祈願する行事のときに、阿嘉の巫女(のろ)が慶留間に渡ろうとしてもその鮫のために渡れなかったという。
 上地仁屋は、それを知ると「よし、俺がその大鮫を退治してやろう。もし俺がその大鮫に食われたとしても、そいつの腹の中で暴れてやる。」と決意し、刀を持って舟を出した。
 仁屋の舟が港を出るとたちまち大波を起こして大鮫が現れ、一口に仁屋の舟を飲み込んだ。
 仁屋はそれでもひるまず大鮫の腹中を散々に切り裂いたので、阿嘉島と慶留間島の間の海は、大鮫の血で真っ赤に染まった。
 夕暮れ時になるとさすがの大鮫も死んでしまった。
 死んだ大鮫が慶留間島の近くを漂っていたとき、仁屋は鮫の腹を割いて出てきたが、すでに仁屋の身体はすべて爛(ただ)れて泳ぐ力もなかった。
 人々は急いで仁屋を慶留間島に上げて介抱したが、そのかいもなく絶命した。

 中山王はこの話を聞いて仁屋に慶留間大屋子の位を追贈(ついぞう)した。
 慶留間の島人は、上地仁屋を敬って慶留間魂(げるまのしー)と呼んで葬り、その墓を慶留間御嶽(げるまうたき)として祀るようになった。

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10 渡嘉敷島 鬼慶良間

 昔、渡嘉敷島の北の儀志布島(じっぷじま)の洞窟に立派な身なりをした武将が隠れ住むようになった。
 その何日か後で大きな何隻もの軍船が来た。
 洞窟に隠れていた武将には味方の船か敵の船か分からなかったので「味方の船ならば、赤い旗、敵ならば白い旗を上げよ。」と命じて偵察の者を出してやった。
 やって来たのは味方の船で、戦に勝ち儀志布島に隠れ住む武将を迎えに来たのだったが、偵察の者は味方が来たのに喜び、船で出された酒をしたたか飲むと間違って白い旗を上げた。
 それを見た武将は、敵が来た合図の白旗なので、洞窟にいる家来に自害することを命じ、妻子をつれて島の南の断崖まで来た。
 ちょうど船から島の北に多くの武士たちが上陸するのを見て、武将はもう逃れられないと思い妻と子を崖から突き落として殺し、自分も身を投げようと思ったができないでいると、島の漁師が通りかかったので、その武将は漁師に金の太刀を与えて崖から突き落としてもらって死んだ。
 この武将の墓は、この後家来たちの手で儀志布島の南の洞窟につくられ、墓の上に建てられた漆塗りの屋形の名残りの木材などが散らばっていたという。

 儀志布島からは干潮のときに歩いて渡れる渡嘉敷島の渡嘉敷村に鬼慶良間(おにぎらま)と呼ばれる大力者が住むようになったのはその頃からだった。
 島の人々は多分あの儀志布島で自決した武将の一族だろうとうわさした。
 しかし、鬼慶良間は島の人たちからいくら尋ねられても決して答えようとはしなかった。
 ただ、ひたすら島の人たちに舟や道や新しい作物の作り方を教えた。
 ある時、渡嘉敷村から田に行く途中に小川が流れており、村人が田の行き帰りに難渋しているのを知ると、近くの山から太い松の木を何本か抜いてきて、橋を架けてやった。
 ところが波嘉敷島の南には阿波連という村があり、その村に阿波連弁慶(あはれんびんちー)と呼ばれる大力の男がいた。
 この男はつねづね鬼慶良間が島の人々と親しくするのを快く思わなかった。
 そこで、鬼慶良間の架けた橋にやってきて、その橋を踏み折ってしまった。
 これを聞いた鬼慶良間は、別に怒りもせずに「そうか、木の橋はいつか折れたり、腐ったりするからな。」と、今度は大きな三枚の平たい石を一度に担いできて橋を造り直した。
 いくら大力者の阿波連弁慶でもこの石の橋は踏み折ろうとしても折れなかったので、鬼慶良間に相撲の勝負を申し込んだ。
 沖縄の相撲に土俵はない。
 両方の力士が帯をし、その帯を互いにつかんで試合が開始され、相手の背中を地面に付けた方が勝ちになる。
 試合は、島の北の波嘉敷と島の南の阿波連の中間にあるトカシクの海辺で行われた。
 多くの人が見ていると、力自慢の阿波連弁慶は「おい、見ろよ。これがおれの帯だ。」と太い青竹をまるで紙のようにしごいて帯にし、鬼慶良間の方は、黙って船の太い錨綱(いかりづな)をまるで細い藁でもちぎるようにプツプツと切って帯にした。
 島人はあまりの二人の強さにあきれてしまった。
 「この大力の二人が勝負をしたら、どちらかが命を落とすことになるよ。」
 「そうだ、これは止めないと大変なことになる。」と勝負を止めさせた。
 トカシクの岩場には、今もこのとき組み合った二人の足跡が残っている。

 鬼慶良間は、年老いてから大きな墓を造りはじめた。
 沖縄の墓は、古くは島全体や一族が共同で使う墓で、もともと自然の洞窟などを利用したものだったが、山裾や平地に墓をつくるようになると、石を積みあげて石室をつくり、その中に死者の柩(ひつぎ)を入れて、数年過ぎると洗骨して、その骨を入れた壷を墓の奥の棚に並ペるようにしている。
 島の人たちは、鬼慶良間が自分の墓を造っているとばかり思っていた。
 大力者だけに、大きな石を運んできては、それを積みあげて墓を造っていた。
 もう一つだけ墓の蓋石を載せればできあがる時になって、にわかに病気になって鬼慶良間は死んだ。
 鬼慶良間は、息を引き取る時、渡嘉敷の村人に頼んだ。
 「みなさんは、こんな余所者(よそもの)をよう大事にしてくれた。あの墓はみなさんに使ってもらおうとお礼に造った墓だ。入口が二つあるのも人が続いて死 んだ時の備えのつもりだ。ただ、残念なことにあと一枚蓋にする石を上げ残したままあの世に行かねばならぬ。あの石をみなさんに上げてもらいたいが、おそら くただでは上がらんだろう。その時には鬼慶良間ヒヤーヌエイとかけ声をかけてくだされ。死んだらわしの体などは、海に流せばよい。ああ、それから、みなさ んの先祖が始めて住んだ西山には蘇鉄を植えておいた。普通の年には実だけを食い、飢饉の年には幹も食ってくだされ。そうしてどうか命こそ島の宝だから命を 大切にして百年も千年も栄えてくだされ。」
 鬼慶良閏が一枚だけ上げ残した墓の蓋石は、なるほど島人がみんな取りついても容易には上がらなかった。
 そこで、鬼慶良間の教えのとおり島人が力を合わせながら、「鬼慶良間ヒヤーヌエイ。」とかけ声をかけながら上げると見事にあがった。
 この墓は入口が二つある墓なので、二(たー)ち墓といわれ、波嘉敷村役場の近くにある。
 鬼慶良間は、自分の亡骸(なきがら)を海に流せと言い残したが、島の人々は、この二ち墓の近くに鬼慶良間の墓をつくり、その墓を最も高い尊称である「世(よ)の主加那志(ぬしがなし)」と呼んで崇めた。
 それから何百年もの間、祭りの日には必ず世の主加那志を拝み、先祖の墓を拝む日にもまずこの墓を拝んでから自分たちの家の墓を拝んだ。

 昭和二十年三月末、渡嘉敷島のすぐ近くの海は、びっしりと米軍の軍艦に埋め尽くされた。
 二十六日には、波嘉敷島に米軍は上陸した。
 沖縄本島を攻撃する前に、その手前にある慶良間諸島から攻撃をはじめたのである。
 渡嘉敷島には、特別攻撃隊用の人間魚雷が隠されており、少数の兵隊が守備していたが、人間魚雷を一艇も出撃させるいとまもない間の上陸だった。
 慶良間諸島では、座間味島でも、慶留間島でも集団自決が行われた。
 渡嘉敷島では、住民は先祖がはじめて住んだという西山に登り、二百数十人が自決した。
 思い止まって生き残った人々は、日本が降伏した八月十五日よりも遅い、八月二十日に西山をおりて、米軍の施設に収容された。
 島の人々の話では、その間生き残った人々の食料となり命をつないだのは、世の主加那志と島人が讃えた鬼慶良間が植えた蘇鉄(そてつ)だった。
 米軍の攻撃で、山の木がすべて焼かれてなくなっても、鬼慶良間の蘇鉄だけは、焼けた棒杭のように西山一帯に林立し、しばらくするとすぐに青い芽を出したというのである。

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11 久米島 笠末若茶良

 今から四百五十年ほど前、久米島に伊敷索(ちなは)という按司(あじ)がいた。
 この按司は白瀬川(しらせがわ)の近くに自分の城を造り、長男は、久米島の北で最も高い宇江城岳(うえぐしくたけ)の頂上に城を造って島の北部一帯を支配させ、次男には西の海岸の唐泊(とうどまい)の側に具志川城(ぐしかわぐしく)を造って海外交易を行わせ、しかも長男と次男は久米島の有力者の娘を娶(めと)らせていた。
 また、自分の娘達も島の有力者と婚姻させることで、久米島全体の支配を固めていた。
 この長男と次男の母親は伊敷索按司の正妻だったが、その後、粟国島の大屋(うふやー)の娘を久米島に連れて来て側室にすると、三男の笠末若茶良(がさしわかちゃら)が生まれた。
 伊敷索按司の正妻は、側室の子である笠末若茶良を憎んでことごとく苛(いじ)めたが、若茶良は立派な青年に育ち、島の人々に慕われるようになった。

 やがて若茶良は、旧仲里村側の登武那覇城(とんなはぐすく)の城主になった。
 ある年の十二月二十八日、天の神に一年の恵みを感謝する祭りの日、いつもの年ならば久米島の総ての神女達は伊敷索按司を拝むのに、その年には一人の神女も伊敷索按司を拝まずに登武那覇城主(とんなはじょうしゅ)の笠末若茶良を拝み、そればかりか、久米島の神女の中でも最も位の高い君南風(ちんべー)が人々の前で「笠末若茶良は、徳が高く将来は久米島どころか、沖縄全体を治める按司になるだろう。」と予言した。
 父親の伊敷索按司は、これを聞いて思った。
 「このままではやがて笠末若茶良に滅ぼされるに違いない。」
 伊敷索按司はまず若茶良の母親を粟国島に帰し、それまでも若茶良の讒言(ざんげん)をしていた平度比屋(ひどぬひやー)と密かに若茶良を滅ぼす策を練っていた。
 粟国島に帰った若茶良の母親は、毎日息子のいる久米島を眺めながら暮らした。
 そのときの歌が残っている。

 いややとぅざ主(すー)よ まくしとぅいざ主(すー)よ うらきらしゃみほしゃ 離(はな)れ居(お)る吾(あん)は とぅわけ居(お)る吾(あん)ん や とぅわけ居(お)る吾(あん)んは はは崖降(はんたう)りやい 後崖見(くしはんたみ)りば 笠末若茶良(がさす)の 笠末若茶良(がさすわかちゃ ら)の 真物(まむぬ)若茶良(わかちゃら)の うち歩(ゆ)みがみゆる うち歩(ゆ)みが見物(みむん) 振(ほ)れ舞(ま)いが見物(みむん) 前 (めー)むいから寄(ゆ)てぃ来(く)う 側(すば)にかちゆてぃ来(く)う
 〔天下に名を轟かせる主よ 愛しい名高い方よ 待ち遠しく思われてならないよ 離れている私は 離れ島におる私は 離れ島におる私は 崖っぷちに降りて 行って 後崖を見れば 笠末若茶良の 笠末若茶良の 立派な若茶良の 歩くのが見えるようだ その歩く姿の見事なことよ その振る 舞いの美しいことよ さぁ、前に寄っておいで 側に寄っておいで〕

 若茶良も母親が粟国に帰されると粟国の見える楚那見崎(すなみざき)の丘の大きな石に毎日上がった。
 その大きな石に母をしのんで涙を落としたので、やがてその涙の落ちたところには穴が穿(うが)たれ、その石は後々まで涙石と呼ばれた。
 やがて伊敷索按司は平度比屋と共に兵を集めて若茶良の登武那覇城を攻めた。
 しかし、若茶良は徳が高いだけでなく、兵法にも優れていたので、伊敷索按司の軍勢は敗れ、伊敷索按司の乗った馬は、泥の深い田に落ち込んでしまった。
 そのとき若茶良は、動けなくなった伊敷索按司を泥田の中から助け出すと、泥を丁寧に洗い落として言った。
 「私には、お父上に刃向かう心は少しもございません。どうかお帰りください。」
 そのとき伊敷索按司は若茶良を攻めたことをさすがに恥じて伊敷索城に帰った。
 
 そんなことがあっても若茶良の母親を恋い慕う心は変わらなかった。
 「どうしてもお母さんをこの城に迎えたい。」という一心で船を造り、久米島の真泊(まどまり)から粟国島に向けて船を出した。
 ところが、沖合まで出たところで大風に遭い、久米島の楚那見崎(すなみざき)から東の方角に長く伸びた端の御願崎(うがんざき)の岩礁に座礁してしまった。
 若茶良はようやく岩礁伝いに楚那見崎に帰ってきた。
 そのとき若茶良を介抱したのは、登武那覇城下の宮平(みれー)の人達だった。

 ところがそれを知った平度比屋は「今が若茶良を滅ぼす好機だ。」と伊敷索按司に知らせて兵を集めると楚那見崎の洞窟で身体を休めている若茶良を攻めた。
 疲労の極に達していた若茶良ではあったが一人で奮戦し、若茶良を慕う安谷屋(あだんな)大黒(うふぐろー)などは怒りに髪の毛を逆立てて駆けつけた。
 しかし、大勢に攻められて身体中に傷を負った若茶良は、味方の人々が駆けつける前に「我が命を救ったのは宮平村の人たちで、私を陥れたのは平度比屋だ。願わくは天の神々よ、その善悪の報いを与えてください。」と言って自刃(じじん)し命を断った。
 その後、宮平の一族は栄えたが、平度比屋の一族はハブに噛まれて命を落としたり疫病にかかったりして滅び、さらに伊敷索按司の一族も八重山のオヤケ赤蜂滅亡の後、首里の軍に攻め滅ぼされた。

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12 北大東島 大東島の名

 南北大東島には四つ名前がある。
 古くは、沖縄本島などの漁師がたまたま嵐などで東方に流されたときに東方はるかに見えた二つの島影を「うふあがりじま」と呼んだ。
 そして、一八〇七年にフランスの軍艦カノニエルが命名した「ラサ島」、一八二〇年にロシアの艦艇ボロジノの海軍佐官であったボナフディンが島を見て命名した「ボロジノ島」である。
 さらに一八八五年(明治一八年)になると、日本海軍がこの二つの島に上陸し、日本に所属することを明示するために「沖縄県所管」の国標を建てて「大東島」と呼んだ。
 沖縄の漁民が呼んだ「うふあがりじま」には、畏敬(いけい)の念はあっても、占有の意識はなかったが、当時地図に表示されていない島を命名するのは、占有を意識してのことであったと思われる。
 しかし、この二つの島とも切り立った崖が囲む島であったために、フランスもロシアも命名はしたが上陸して自国の所有地であることを示す証拠を残すことができなかった。

 やがて南大東島に玉置半右衛門が八丈島の人達を引き連れて移住した。
 玉置半右衛門は北大東島をも、自分達の所有であることを示すために、サトウキビを三株植えてその証拠にしたと言われる。
 やがて南大東島のサトウキビ栽培を成功させた八丈島の人達は、徐々に北大東島にも移住してサトウキビ栽培を行ったので、名実共に日本の島となった。

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13 南大東島 南大東島と八丈島移民

 南大東島も北大東島とほぼ同じ経緯で日本が占有することとなったが、沖縄の漁師が東方に大東島(うふあがりじま)という神の島があると伝えたのは、おそらく南大東島のことであったと思われる。
 漁民はその島を見ると上陸するどころか、遠くから島影を見ただけで脅え、できるだけ早く遠ざかろうとしたという。
 それは、沖縄本島の最高の聖地である斎場御嶽(せーふぁーうたき)が東方の久高島の遙拝地であることが示すように神聖な方角は東方であり、さらに各地の祭りの神々も東方の大東島(うふあがりじま)から来訪すると人々は信じていた。
 それゆえに神の島に近づいて神の祟りを受けることを恐れていたのであった。
 確かに海上に聳立(きりつ)する大東島の姿は、人々に強烈な畏怖(いふ)を与えるに充分であった。
 その島に近い沖縄本島よりも八丈島から人々が移住したのは、当時の琉球諸島の東方信仰からすれば当然だったのかも知れない。

 八丈島の人達が伝える昔話には、沖縄各地に多く伝えられる話と共通する話型が多い。
 例えば沖縄の最も主要な話型である「蛇婿入」と沖縄で最も多く聴取される継子話の「継子の麦つき」も両者の共通話型であり、沖縄の各地の伝説としても伝えられる「天人女房」「子育て幽霊」「姥捨山」、他の地域では滅多に聞けず宮古や与那国との共通の伝説である「女護ケ島」や先島諸島に多い「津波の生き残り始祖伝説」も、沖縄と八丈島が共有する伝説である。
 さらに沖縄でも多く伝えられる源為朝伝説は八丈島の最も有力な伝説であった。
 ただし、八丈島には、秦(しん)の始皇帝が徐福(じょふく)に命じて東海に仙丹を求めさせたという徐福伝説が豊富に伝えられているが、この話は沖縄に伝えられてない。
 こうした伝承からは、八丈島の人達が南大東島を神の島として畏怖していたことは認められない。
 大東島は、沖縄本島やその周辺の離島の人からすれば、恐るべき神の島であっても、玉置半右衛門が率いる八丈島の人達にとっては信仰とはかかわりない無人島であった。
 南大東島に八丈島の人達が居住するようになったのは一九〇〇年(明治三三年)のことであったので沖縄の島々で近世に形成されたような伝説はまったくない。
 もし、あるとすれば、最初南大東島に上陸したとき、泉が見つからずに苦労していると犬が泉を見つけてくれたという伊計島の犬井泉(いんがー)や読谷村楚辺の暗井泉(くらーがー)と同じ犬井泉の話である。

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14 宮古島 宮古島の始まり

 大昔、天地が定まらず青海原の波はゆらぎゆらいで宮古島の形もない時、天の御国なる天帝(あめのてだ)は天の岩柱の端を折って弥久美神(やぐみのかみ)に授け「お前は、下界の風水のよい所にこれを投げ入れて島を造りなさい。」と命じた。
 弥久美神は早速、天に掛かる虹の上から青々とした大海原にそれを投げ入れると、その石が凝り固まって宮古の島が出来た。

 天帝はその島に赤土を下し、古意角(こいつの)という男の神に「お前は下界に下り、あの島に美しい人の世を建てて守護神となれ。」と言った。
 そのとき古意角は、天帝に感謝して出発しようとしたが、心残りがあって天帝に言うには「我に足りないもう片方の身体を下さい。」と願った。
 天帝が「お前は五体がすべて揃っているのに何が不足なのか。」と言うと、古意角は「すべて陽があれば必ず陰があり、陰があれば陽があります。」と申し上げると、天帝は「なるほど、それも道理だ。それなら姑依玉(こいたま)という女神を連れて行きなさい。」と言った。
 それで、古意角と姑依玉の二神は、盛加神(もりかのかみ)と申す豪力の神を始めとし、多くの神々を従えて天の虹の橋を渡り、七色の綾雲に乗って下界近くまで来ると、先に罪を犯して天国を追放された鬼達が天から下りるのを妨げようとした。
 大力の盛加神は、大いに怒って天(あめ)の立矛(たてぼこ)で鬼共を薙ぎ倒そうとした。
 火麻呂神(ぴまるのかみ)は、猛火を起こして焼き殺そうとし、天干瀬神(あまびせのかみ)は豪雨を降らせて流し棄てようとした。
 そのとき、古意角の神は、鬼達を追い払おうする神々を押し止めて「神の心には露ばかりも憎む心はない。」と言って、八束穂(やつかほ)の白飯(しろいひ)を鬼達に賜い、「正しい者は天の下、地の上のどこでも闇に遇うことはない。正直な心は明るく輝く心だ。」と言って、八継(やつぎ)の色たて衣(ぎぬ)の御袖で鬼達を撫でると、鬼共の悪びれた心は正しくなり、神の心を表したので、皆が集まって天降り、漲水天久崎(ぴやるみずあめくざき)の地に宮殿を造って住んだ。

 古意角と姑依玉の二神が神々に「島建(しまだて)の仕事をしなさい。」と命令したので、神々は心ある生き物や心のない草木を生み出したので、楽しい人の世が宮古の島に現れた。
 そして、古意角、姑依玉の二神は、宗達神(むにだるのかみ)、嘉玉神(かだまのかみ)という男の神と女の神を生んだ。
 ところがそのころの宮古島は赤土ばかりなので穀種が作りにくく、しばしば食物が乏しくなった。
 天帝はそれを憫(あわれ)んで黒土を下したので、それからは五穀が良く実り、食物に不自由しないようになった。

 宗達神、嘉玉神が十余歳の頃、天帝が古意角、姑依玉の二神におっしゃるには「お前達は、人の世の続くかぎり末長く島建ての神と崇められ、お前達の世は天に輝く太陽のように栄えるだろう。」と言って、紅葉を身にまとった木装神(きふそうのかみ)という男の神と、青草を身にまとった草装神(ふさふそうのかみ)という女の神を降した。
 古意角、姑依玉は大変それを喜び、宗達神は草装神と結婚させ、嘉玉神は木装神と結婚させ、宗達神夫婦には東仲宗根の地を与え、嘉玉神夫婦には西仲宗根の地を与えた。
 やがて宗達神は世直真主(よなねしのまぬず)という男児を生み、木装神は素意麻娘司(そいまらつかさ)という女児を生んだ。
 この二神が夫婦となったところ、その二神から子孫が増えて宮古島の人々になったという。

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○ 池間島 卵から生まれた十二神

 昔、金持ちの家に住み込みで働いている貧乏者な家の娘がいた。
 ある日、森に薪(たきぎ)を取りに行った娘は、夕方になってもなかなか薪になる枯れ枝を集めることができなかった。
 そのまま雇い主の家に帰ったのでは、叱られるので、その日は森に泊って朝になったらまた薪を集めて帰ろうと森の中で寝ていると、傍の木の枝に赤い美しい鳥が止まっていた。
 その鳥を見ているうちに、娘はうとうとして眠ってしまった。
 翌朝になって起き出して見るとその赤い鳥の姿は見えず、小便をしようとすると、十二個の卵を生んだ。
 「これは不思議なことだ。」と思ったが、自分の生んだ卵なので、穴を掘ってその卵を埋め、その上に木の枝を集めて隠し家に帰ってきた。

 それから、一年もたたないうちに卵を埋めたところに行って見ると「母さん、母さん。」と呼ぶ声がしたので、「私には子どもはいないんだが、どうして私を母さんと呼んでいるだろう。」と思いながら見ると、そこに十二人の子どもが座っていた。
 それは、十二の卵から生まれた子どもだった。
 娘は十二の卵の母親になったので、そこに家を建てて暮らしているうちに、どうしたものか暮らしも次第に良くなり、食うのにも困らないで暮らしていた。
 やがてその母親は、宮古の母神、長男は池間島の大主(おおぬし)の神、残りの十一名の子どもたち宮古の方々の御嶽の神となった。

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○ 大神島の伝説 海賊の宝探し

 昔、大神島に宝が埋めてあると聞いて、海賊船がやって来た。
 海賊達は、大神島に上陸すると、宝のある場所を聞き出そうと島の人達を捜したが見つからなかった。
 島の人々はあわてて一か所にみんな隠れてしまったからだった。
 そのとき、海賊が来たとは知らないでいた大浦の家のお爺は、二人の孫と一緒に麦畑で麦を刈っていた。
 それを見た海賊は、そのお爺は殺したが、孫をそのまましておけば親のいる所に行くから島の人達が隠れている場所が分かるだろうと思って、孫は殺さなかった。
 お爺を殺された兄と妹は、親達が隠れている場所が分かっているから、泣きながらその場所に向かった。
 海賊達がその後を追って行くと、二人の子どもは島の後ろの方の海岸に行った。
 その海岸の大きな岩の下には洞穴があり、そこに島の人がみんな隠れていたので、海賊達は、最初は魚を取る銛で島の人達を殺そうとしたが、あまり人が多いので、船から木を持ってくるとそれを燃やして島の人達をみんな殺してしまった。
 生き残ったのは、その兄と妹だけだった。

 二人は島の西の方の山奥にある洞窟で暮らしていたが、やがて夫婦になった。
 この二人の子孫が今の大神の人達の先祖になったという。
 このとき島の人達が隠れた洞窟にはたくさんの人骨があり、また、そこには宝があると言われていたのでいろんな人が来て何度も宝を捜したが、宝はみつからなかった。

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15 来間島 来間の島建て

 昔、宮古島の今の旧・下地町の川満(かわみつ)に貴佐真按司(きさまあじ)という豪族が住んでいた。
 貴佐真按司は海外とも交易をして富を積んだが子どもがいなかった。
 そこで、神様にお願いすると女の子が生まれた。
 やがてその女の子は素晴らしくきれいな娘に育ったので、神様や魔物にさらわれないようにいつも母親がついていた。
 ところが、その娘がある朝便所に入っていると、東の方から昇ってきた太陽が手を伸ばしてきてその娘を捕まえた。
 それからその娘は妊娠したが三年の間妊娠したままだった。

 やがて陣痛が起こり三日後に三つの卵を生んだ。
 貴佐真按司は、その卵の父親が何者か分からなかったので、畑の草をひいて積んだものの中に入れておいた。
 何日か後で貴佐真按司がそこに行ってみると、その草の中から「お爺、お爺。」という声が聞こえた。
 見るとそこには卵の殻を帽子のように被った男の子が三人いた。
 その子たちを家に連れて帰ってご飯を食べさせると、長男が七升、次男は五升、三男は三升食べ、食べるたびに大きくなったが、その三人の子がとても大喰いだった。
 貴佐真按司は、とても養いきれなくなり、親戚で子どもがいない与那覇(よなは)の勢頭豊見親(せどとよみおや)のところに連れて行って「この子どもたちをあげるから養ってくれ。」と頼んだ。
 勢頭豊見親は喜んでその子どもを預かったがやはり養いきれないので、貴佐真按司と相談して、その子ども達を来間島にやることにした。
 来間島なら食べ物があると聞いた三人兄弟は、浜辺の松の木を引き抜いて枝を払い、その松の木に乗って来間島に渡った。

 島に着いたとき鳩が羽を濡らして飛び出してきたので泉があるのを知り、その泉のところから島の上の平地に上がる四十メートルの崖を登って行くと、上から臼で粟をつく音が聞こえてきた。
 崖の上には家が一軒あったが人の姿は見えなかった。
 家の裏に置いてある鍋が上下に動いていたので鍋を開けて見ると、鍋の下には九十歳の老婆がおり、その老婆は、三人の兄弟が自分を捕らえようとしているのだと思って怖がっていた。
 老婆の話では、祭りを止めた年から大きな赤い牛が現れ人々をさらって行ったので、来間島にはその老婆以外には誰も住んでいないということだった。
 そこで三人兄弟が牛が現れる東の御嶽に行くと、宮古島から来間島に真っ直ぐに伸びる長干瀬(ながぴし)と呼ばれる珊瑚礁(さんごしょう)から赤牛が現れ、飛ぶように崖を駆け上がってきた。
 身長が五尺の三男が赤牛と戦ったがすぐに飛ばされ、六尺の次男も飛ばされそうになったので、七尺の長男が出て行って赤牛を組み伏せ片方の角を抜いて放してやった。

 次の日の朝、牛が現れた長干瀬に行ってみたが赤牛の姿はなかった。
 三男が海中を見ると海の中で機(はた)を織っている娘の姿が見えた。
 三人の兄弟は海中に入ると海中にも陸があり、その娘の案内で行くと彼方にガラスで造られたような三つの建物が見えた。
 一つは来間からさらってきた人を入れておく蔵、もう一つは宝物殿、もう一つは神の住居だった。
 その神の住居に入ると、中はとても立派で床までが漆塗りだった。
 すると、耳から血を流している神が奥の方から現れた。
 その神に昨日奪った牛の角を返すと神は昨日の赤い牛の姿になった。
 三人兄弟が「なぜ来間の人をさらってきたか。」と言うと、赤牛は「私のおかげで作物が取れたのに祭りを止めたから、その罰で人をさらってきた」と答えた。
 「祭りは私達がやるから来間の人を返してくれ。」と言うと、赤牛は「来間からさらってきた人達は目玉に鉛を入れたので返しても役にはたたない。この娘なら役にたつから、この娘を連れて行け。」と言った。

 三人兄弟がその娘を連れて来間島に帰ると、その娘は生き残っていた老婆の娘だった。
 長男とその娘が結婚しスムリャーという家を建てた。
 その二人から生まれた娘の一人と次男が結婚し、ナカウプヤーという家を建て、もう一人の娘と三男が結婚しヤーマスヤーという家を建てた。
 来間島の土地は、この三軒の家で分割し、この三軒の家がその末裔にいたるまで赤牛に約束したヤーマスヤウガンという祭りを行うようになった。

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16 伊良部島・下地島 ヨナイタマ通り池

 昔、下地島の木泊村に北の家と南の家の二軒の家があった。
 ある晩、この二軒の家の主人が漁に行くと、ヨナイタマという大きい魚が取れた。
 それは龍宮の神の娘で七匹の中の一匹だった。
 二軒の家では大きい魚だから、魚の片方だけを炊いて食べ、もう片方は家の上に載せて乾かしておった。

 その晩、その木泊村に伊良部島のウイスガーから嫁に行っていた人の子どもが夢を見たのか、夜中に急に起きて泣きながら「母ちゃん、母ちゃん。起きろ、起きろ。ウイスガーのお婆の家に行く。」と言った。
 嫁さんは「どうしてこんな夜中に泣いているか。今からは遅くて行けないから、もう夜も遅いから眠りなさい。」と言ったが、子どもは「ウイスガーのお婆の家に行く。」と言って泣き止まなかった。
 だから嫁さんは「子どもがこんなに遅くから泣いているとは不思議だ。子どもが泣き止まないから行ってみよう。」と思ってその泣いている子どもを連れて家を出ると、下地島に住んでいる鼠や鶏などがみんな伊良部島の方に渡って行くのが見えた。
 嫁さんと子どもが、伊良部島のウイスガーのお婆の家に行って「子どもがこんなに言って泣いているから来ました。」と言った。
 子どもはその家に着くとすぐに泣き止んだのでその晩は、そのお婆の家に泊まった。

 そのころ海の龍宮の神は、七人の娘のうち、六人までは帰って来たが、一人は帰って来なかったので、下地島に来て「ヨナイタマ、ヨナイタマ、早く帰っておいで。ヨナイタマ、こんな遅くまでなんで帰って来ないか。」と言った。
 ヨナイタマは「自分の右側は食べられてしまって、左側は家の上に乗せて乾かされているから降りて行くことはできない。」と言った。
 すると龍宮の神が「じゃあ、私が大きい波を行かすから、それといっしょに帰っておいで。」と言って、大きい波を寄せたので、ヨナイタマはその大きい波といっしょに海に帰って行った。
 海に帰ったヨナイタマが、龍宮の神の両親に「自分は、もう片方は食べられてなくなってしまった。」と嘆いていると、「大丈夫だ。もうしかたがないから、片身だけで生きてゆけるようにしてやる。」と言って、そのヨナイタマを片方に目があるヒラメにした。
 ウイスガーのお婆の家に行っていた子どもと嫁さんが次の朝、家に帰って見ると、北の家も南の家も津波で落ちてしまって、そこは大きな二つの池の通り池になっており、ヨナイタマを食べた人はみんな死んでいた。
 そのときの津波で流された石が、下地島や佐和田の浜に今も転がっている。

 その後のことだが、ある晩、継母が継子と自分の子を通り池に連れて来た。
 通り池の岸には畳一枚分ぐらいの平らなところが二つあるので、継子は海の近くに、自分の子どもは少し離れたところに置いて寝かしておいて「海に行って貝やらなんやら取ってこようね。」と言って海に行った。
 そのとき、継子が夢で「あんたは向こうに行って、自分の弟をそこの海側に寝かしてあげなさい。」と言われた。
 だから、夢で言われたとおりに自分の寝ているところと弟の寝ているところを替えた。
 やがて、海から帰ってきた継母は海の近くに寝ているのが継子だろうと海側に寝ていた子どもを通り池に落とし、もう一人の子どもを自分の子どもと思って連れて帰ったら、抱かれている子どもが「弟はどこに行ったか。」と言うので、今抱いているのが継子で、通り池に落としたのは、自分の子だと分かったから、継母は通り池に身を投げて死んでしまった。
 この継母とその子どもが死んだ日には、今でも通り池は血のように赤くなり、親子の鮫が現れるという。

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17 水納島 百合若大臣

 都の百合若大臣(ゆりわかでーず)は強い人だが、眠り始めると七日の間も眠り続ける人で、奥方はとてもきれいな人だった。
 その百合若大臣の家来の中に、美しい奥方を自分の妻にしたいと思い、百合若大臣の命を狙う者がいた。
 ある船旅の途中、この家来が六尺の刀を抱いて眠っている百合若大臣を筏(いかだ)に乗せて海に流した。
 百合若大臣が目を覚ますと筏は、人が一人も住まない宮古の水納島(みんなしま)についていた。
 百合若大臣は、六尺の刀が五寸の短さになるまで貝を掘って食べ、シャコ貝の殻にためた水を飲んで暮らした。
 ある日海岸の岩に大きな鳥が止まっているので、近づいて見るとそれは家で飼っていた鷹で、足には妻の手紙が結んであった。
 百合若大臣は、早速自分の指を刀で切り、血で妻への返事を書いた。
 その手紙を見た妻は、鷹の足に硯(すずり)と筆を結び付けて飛ばしてやった。
 ところが、鷹は大嵐に遭い、その上、硯が重かったので百合若大臣のいる水納島まで来ると力尽きて死んでしまった。
 百合若大臣は死んだ鷹を見つけるとその鷹を島の真中に埋め、その上に石碑を立ててやった。
 それが今も宮古の水納島にある鳥塚(とりづか)となった。

 それから、百合若大臣が毎日海を見て暮らしていると、大きな船が島の近くを通ったので、百合若大臣は岩に上がって声をかぎりに叫んだ。
 船の方でも百合若大臣に気づいて島に近寄ってきたが、百合若大臣は、髭がぼうぼうで、着物が海草のようにぼろぼろになっていた。
 その姿を見た船員は「こいつは、化物だから乗せられん。」となかなか乗せてくれなかった。
 それでも百合若が一生懸命に「私は、人間です。どうか助けて下さい。」と頼んだので、ようやく船に乗せてもらって都に帰ることができた。
 ところが、自分の住んでいた屋敷に行って中に入ろうとすると門番がその汚れた姿を見て、どうしても中に入れてくれなかった。
 それでも強く頼まれた門番が仕方なく主人に聞きに行っている間に、百合若は屋敷の中に入ってその家の主人に会うとそれは、自分を島に流した男だった。
 百合若は「昔この家に百合若大臣という人がいたそうだが。」と尋ねると、昔の家来は何人掛かりでないと持てない鎧や兜、煙草盆(たばこぼん)などを家来に運ばせ百合若の話をした。
 百合若大臣がその鎧を着て兜をかぶり、刀を持って身震いして「お前は、私のことを忘れたか。」と立ち上がった。
 その時、鎧や刀の錆(さび)は一度にぱっと飛び散り、悪い家来はみんな退治された。
 それから百合若大臣は、閉じこめられていた妻を助け出して、それまでよりも幸せに暮らした。

 今も多良間島では朝寝坊の人をユリワカデーズといい、水納島にはこの伝説の鳥塚がある。

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18 石垣島 オヤケ赤蜂

 八重山は、宮古の与那覇勢頭豊見親(よなはせどとよみおや)が沖縄本島の中山王(ちゅうざんおう)に入貢した一三九〇年(察度王四一年)の後で、その与那覇勢頭豊見親に誘われて首里王府に入貢するようになったと言われる。
 そのころの八重山の中心は石垣島ではなく、西表島西部の祖納(そない)を中心とする地域だった。
 当時の宮古や八重山の入貢とは、中山王や南山王が中国の明に進貢するのと同じような儀礼的なものであったと思われる。
 沖縄本島を支配する北山、中山、南山の王にとっては、最大の富をもたらす中国への進貢は、沖縄本島を出た船が久米島を経由して、宮古島に着き、そこから先島の島伝いに中国の福州に行くか、尖閣諸島を経由して福州に行くかのいずれかであったので、宮古や八重山の先島諸島が入貢して来ることは、中国への進貢を名目とする交易の航路を確保するために歓迎すべきことであった。
 オヤケ赤蜂が生まれた時代は一四九二年にコロンブスがアメリカ大陸に到達したことですでに大航海時代に入っており、一四九八年には、ヴァスコダガマがインドのカリカットに到着していた。
 オヤケ赤蜂伝説の中には、赤蜂は大男で頭髪が赤く目が青かったから父親は西欧人の子であったろうという伝えもあるが、遅くても赤蜂が生まれたのはヴァスコダガマがインドに到着するかなり前の一四七〇年代と思われるので無理がある。

 オヤケ赤蜂は波照間で生まれた。
 赤蜂の誕生について、ある人は、赤ん坊が薦(こも)に巻かれて海から流れ着き、アダン葉の下で泣いておったのを朝方漂着したものを見て回る人が見つけて村の古老に伝えると、その古老が、どこを向いて泣いているか聞くので、東に向かって泣いていると答えると「それじゃ、その子は神の子だ。いい子に違いないから連れてこい。」ということで村に連れてきて養ったという。
 またある人は、波照間の東の海の側にミンピガーという海の潮が吹き出てるところの側に捨てられて泣いてる赤ん坊を見つけた人が年寄りに相談すると、その年寄りもやはり「東に向かって泣いておったら連れてきなさい。西に向かって泣いておったら連れてくるな。」と言うので見つけた人が東に向かって泣いていると言ったので、育てられたと伝えている。
 さらにある人は、父親がオランダ人であるかどうかはともかく、難破船から上陸した男と波照間島の司(つかさ)の間に生まれた子がオヤケ赤蜂だったという。
 波照間島では神を祀る司は結婚してはならないことになっていた。そこで妊娠した司は、司以外の立入りが許されない御嶽の中に小屋を作って子どもを産んだ後、その子どもを一時浜に捨てておいて、捨て子を拾ったことにして育てたともいう。

 その子どもは育てていくうちに、体格も大きくなり頭は優れていた。
 仲宗根豊見親(なかそねとよみおや)の子と伝える長田大主(なーたふーず)も波照間島の生まれで、幼いときから赤蜂と一緒に遊んでいたが、長田大主はオヤケ赤蜂よりも早く石垣島に出てきた。
 当時の石垣島の人口は、六百人程度だったという。
 長田大主は、宮古の支配者で八重山の島々にも強い影響力を持っていた仲宗根豊見親の勢力を頼んで石垣の四箇(しか)の支配を固めてしまった。
 当時、八重山の中心地であった西表島祖納(そない)には平家の子孫と伝える慶来慶田城(けらいけだぐすく)がおり、石垣島の西北の川平(かびら)には仲間満慶山(なかまみつけいやま)、四箇には長田大主、石垣島北端の平久保(ひらくぼ)には平久保加奈按司(ひらくぼかなあんじ)、波照間には獅子嘉殿(ししかどぅん)がいて、群雄割拠の状態だった。
 波照間島から小舟に乗ってきたオヤケ赤蜂が着いたところは石垣島の東海岸の野底村(のそこむら)だった。
 そこには、人が僅かしか住んでいなかったので村の人達に「この近くで一番大きい村はどこか。」と聞くと、野底村の人達は身体の大きな赤蜂を見て驚き、怯えていたが「大浜(ほーま)村。」と答えた。
 その当時、大浜村(おおはまむら)は海外交易にも便利で、防御に都合がいい宮良川(みやらがわ)の入江に近い崖の上で、今はフルストバル遺跡と呼ばれるところにあった。
 赤蜂が大浜に行くと始めて赤蜂を見た大浜の人達は「鬼が来た。」と言って恐れたが、赤蜂は「私は鬼じゃない。」と言って住み着くと、大浜村のために良く働き、人々を助けたので、次第に大浜の人々とも仲良くなり慕われるようになった。
 そのころの大浜は近くの島々との交通も盛んだったので、大浜ばかりではなく周辺の竹富島や小浜島でもオヤケ赤蜂に従う者が多くなった。

 赤蜂の勢力が広がって行くと、首里王府や宮古に八重山の島々を従わせようとする四箇の長田大主と赤蜂は対立するようになった。
 長田大主は、赤蜂がスナダーに田んぼを作っているのを知って、「大浜赤蜂の作っている田んぼの水を止めてやれ。」とスナダーに流れる水の元に自分の持っていた杖で穴を開けたので、その水がどこかへ消えて水が流れなくなり、赤蜂はスナダーで田が作れなくなった。
 昔は四箇の上原(うえばる)には、大量の水が湧きだす泉があり、その水は空高く噴き上がり、それは遠くの島からさえも見え、夕日のときには鮮やかに光り輝いていたという。
 その水を水源にして長田大主は田を作っていた。
 スナダーの水を絶たれて怒った赤蜂は「長田大主には、上原の水をやらない。」と言って、石城山(いしぐすくやま)から大きな硬い石を褌(ふんどし)の裾に包んできてその湧き水の上に落とすと、その湧き水はぴたっと止まり、長田大主もそこでは田が作れなくなった。

 オヤケ赤蜂の勢力が強くなると、長田大主の支配する四箇さえも脅かすようになったが、長田大主は赤蜂にとうてい対抗できそうもなかった。
 そのときちょうど赤蜂が長田大主の所に、八重山の島々のことを相談するために訪れて来た。
 そのとき、赤蜂が長田大主のところに一人で行くのは危険だと思っていた大浜の老人が赤蜂に忠告した。
 「長田大主の所で出される食べ物には、用心しなさい。」と。
 長田大主は、赤蜂の顔を見ると、日頃のことはまるで忘れたように、機嫌よく赤蜂を迎えて御馳走を出した。
 長田大主が出した御馳走を赤蜂と一緒にきた老人が箸で挟んで庭に投げると、トットットやってきた鶏がそれを食べてたちまちのうちにバッタリと倒れた。
 それを見た赤蜂は怒って「何をするんだ。毒を盛ってあるんじゃないか。けしからん。」と長田大主に詰め寄り刀を抜いて切ろうとしたが、老人がなだめたので赤蜂は怒りを堪えて大浜に帰った。

 次に赤蜂が長田大主を訪れると、長田大主は前よりも一層丁重に赤蜂を迎えて歓待(かんたい)し赤蜂に「私の妹を娶(めと)らないか。」と言った。
 それから赤蜂は長田大主の妹の古乙姥(こいつば)を妻にすることにした。
 しかし、それは、長田大主がもう首里や宮古と赤蜂討伐の相談を始めた後だったので、「赤蜂が自分を殺そうとしても、自分の妹の古乙姥を赤蜂にくれれば当分の間は自分に手向かいしないだろう。その間に赤蜂を始末すればいい。」と時間を稼ぎ、その間に古乙姥に赤蜂を毒殺させるためであった。
 長田大主は、赤蜂の妻になる古乙姥に「必ずこの薬で赤蜂を殺せ。」と南蛮渡りの毒薬を与えた。
 古乙姥は兄の言うことを断ることができずに赤蜂に嫁ぐと、赤蜂は兄の長田大主が言うような悪人でも恐ろしい人間でもなく、力があって頭も良く人々には大変優しく親切でしかも誠実だったので、古乙姥は赤蜂を殺すどころか、すっかり赤蜂が好きになってしまった。
 だから、いくら兄の長田大主から「早く薬を飲ませて赤蜂を殺せ。」と催促されても、古乙姥は「赤蜂は兄さんの言うような悪人ではない。私は赤蜂の妻だから絶対に薬を飲ませて赤蜂を殺すようなことはしない。」と言うので、兄の長田大主は「それじゃ、私に手向かいする赤蜂と一つだな。」と大変怒ったという。

 このとき首里の軍が大浜の赤蜂を攻めたのは、人頭税を納めなくなったからとか、大浜で邪教であるイディキアマリ祭りをしていたからという説が有力であるが、当時、宮古、八重山の先島よりも近い久米島でさえ首里王府の直接支配は及ばず、八重山諸島に強い影響力を持っていたのは首里王府ではなく宮古の豪族達であり、首里王府はようやく沖縄本島の各地に盤踞(ばんきょ)する按司達を首里に集めてなんとか沖縄本島の支配を安定させたばかりであった。
 だから先島に人頭税など課されるわけはなかった。
 ましてや聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とする信仰支配組織である巫女(のろ)制度が沖縄本島圏で安定するのも、ほぼ同じ時期であったと思われるが、その影響は巫女制度の枠の外にあった先島に及ぶはずがなく、また仮に、そうした信仰支配を強力に進めたとしても沖縄各地に現在までも秘儀的祭祀が存在することが示すように、琉球王府の信仰支配は王府から離れれば離れるほど不徹底なものとなっていたので仮に、イディキアマリ祭を大浜で行っていたとしても、それを中止させることなどできることではなかった。
 当時、八重山と首里とを繋ぐ糸は、明への進貢船や東南アジアへの航路であったことと入貢以外に明確なものはない。
 ただし、入貢の拒否は進貢船の航路として首里王府が重視している八重山諸島から望ましい従順さが失われることであり、まして首里王府に反感を持つ赤蜂が八重山諸島を支配するようになることは、中国及び東南アジアへの交易ルートを失うことを意味していた。
 物産の乏しい琉球王国の富は交易によるものであったので、首里王府が赤蜂征討に踏み切ったのは、赤蜂が首里への入貢を断ろうと言いだしたのをむしろ好機として、八重山諸島を琉球王国の明確な版図の中に組み入れようとしたからだと思われる。
 もちろんその前に仲宗根豊見親をはじめとする宮古の豪族と図って赤蜂征討後の処遇についても合意を取り付けていたはずで、その首里王府と宮古の豪族の石垣島での代理者が四箇の長田大主であった。

 もはや長田大主との対立は避けられないと知った赤蜂は、まず首里王府と宮古の仲宗根豊見親の勢力を味方とする四箇の長田大主と戦うことになった。
 長田大主も古乙姥が赤蜂の側に立つようになって、これまでの赤蜂に対する企みが総て明らかになったので、四箇にも住むことができなくなり、西表島に近い崎枝(さきえだ)に逃れようとした。
 観音堂の近くまで来たとき、赤蜂が追いかけてきたのを知ったので、近くの家に逃げ込んで、その家の婆さんに匿(かくま)ってくれるように頼んだ。
 婆さんはそのとき、三つの石を竈(かまど)にして鍋を載せて芋を煮ていたが、竈の石を脇に置いて穴を掘るとその穴の中に長田大主を隠し、またその上に三つの石を置いて鍋を載せ、前と同じように芋を煮ていた。
 そこに赤蜂が来て長田大主が来なかったかと聞いても、婆さんは知らんふりをしていた。
 赤蜂は、しばらく燃えている竈を見て「水の下に金(かね)、金の下に火、火の下に土、土の中にあってすでに死せり。」と言って去って行ったので、長田大主は助かり、御神崎(うがんざき)から屋良部(やらぶ)に行き、そこにある洞窟に隠れながら芭蕉の筏を造って由布島に逃げ、さらに西表の古見(こみ)に渡って、当時八重山の中心地であった祖納の豪族で平家の子孫と伝える慶来慶田城(けらいけだぐすく)の元に身を寄せ、そこから事の次第を宮古と首里に知らせた。

 長田大主を逃した赤蜂は、大浜の住民と一緒になって戦う味方を集めようとした。
 まず赤蜂は川平の豪族の仲間満慶山(なかまみつけやま)と相談することにした。
 仲間満慶山は、平家の落ち武者の子孫で刀術に優れた人物だったという。
 川平を出立するとき、満慶山の長男が心配して同行を申し出たが、それを断り赤蜂と会う真栄里まで馬に乗ってきた。
 赤蜂は満慶山に一緒に戦うことを頼んだが、仲間満慶山は赤蜂と一緒になって首里王府と戦うことを断った。
 それは長田大主の側につくことと同じことだったので、赤蜂は仲間満慶山が帰る道の途中のケーラ崎の道路に穴を掘って木の枝を置いた落とし穴を造って待ち伏せをし、馬に乗って帰る途中の仲間満慶を討ち取った。
 今、そのケーラ崎には「仲間満慶山終焉の地」という石碑が建っている。
 また、赤蜂は波照間島の獅子嘉殿(ししかどぅん)を味方にしようとして、大力者の嵩茶(たかちゃ)を使者として波照間に送った。
 ところがその獅子嘉殿も味方になるのを断ったので、嵩茶は獅子嘉殿に「とにかくあんたは赤蜂と会って話しなさい。」と言って誘い出し、船に乗せて連れて来る途中で、獅子嘉殿を殺して海に捨てた。
 その死体は小浜に流れ着いたという。

 そのうちに首里王府は、沖縄本島、久米島、宮古の兵を集め、百隻の船に三千名の兵を乗せて、赤蜂征伐に来た。
 オヤケ赤蜂は船が押し寄せて来る新川の海岸に水甕を集めてアダン葉で作った蓑笠を着せて並べ、いかにも大軍がいるように見せかけた。
 首里王の軍の船からは矢を雨のように降らせたが、そこに並んでいるのは、人間ではなかったので、いくら矢が当たっても一つも倒れなかった。
 そのとき、首里王の軍と一緒に来ていた久米島の最高神女の君南風(ちんべー)は、軍の先達になっておったので、姉妹神の於茂登照(おもとてらす)の神に願をかけると、於茂登の神から「オヤケ赤蜂は優れた武将だから、普通では勝てない。筏を作って火をつけて流して攻めればよい。」というお告げがあったので、首里の軍は君南風から教えられ、久米島の南の儀間から島尻にかけて広がる前山(めーやま)から松明(たいまつ)を作るために切ってきた竹でたくさんの筏を作り、それに火をかけて登野城に向けて流したので、赤蜂は、それを見て味方の軍勢を筏が流れて行く登野城に回すと、その間に首里の軍は、新川の海岸から上陸した。

 赤蜂が、いくら多くの石垣島の人を集めて戦い、またどんなに豪勇な赤蜂自身が暴れても、三千の兵と戦うことはできなかった。
 首里の軍に追われた赤蜂は大浜の向こうの底原(そこばる)に逃げると大きな樫の木の上に棚を作ってご飯を食べていた。
 そのとき遅れてそこ来た古乙姥は首里の軍に捕まり、赤蜂の居場所を聞き出すために古乙姥の足の脛を木を噛ませて拷問したので、そこはスニタバルと呼ばれるようになった。
 古乙姥はどんな拷問をされても白状しなかったが、それを知った赤蜂は、木の上から「赤蜂はこっちに居る。」と言ったので、首里の軍勢は一斉に木の上の赤蜂に矢を射たが、赤蜂はその矢を箸でヒョイヒョイと挟んでは捨て、挟んでは捨てた。
 だからいくら木の下から矢を射っても赤蜂を殺すことはできなかった。
 赤蜂が木から下りるとたちまち首里の軍のある者は殺され、ある者は逃げた。
 赤蜂はそこから田原(たわら)の部落の後ろにある森の一本松の下に行くと、さすがに疲れていたので、敵がいないのを確かめて、そこに茅を敷いて寝た。
 そこは今でも茅寝(かやに)と言われている。
 休む間もなく敵が追ってきたので、赤蜂は武名田原(ぶなたばる)の田の中に隠れ蓮の茎の穴から息をして隠れていると、そこに追っ手がやって来て、槍で田の中を探っていると、たまたまその槍先が赤蜂に当たって血が出たので赤蜂は見つかり、赤蜂はその泥田の中で最期をとげた。

 戦前に赤蜂は反逆者と呼ばれたが、戦後になってからオヤケ赤蜂は再評価されたので、大浜の人達は昭和二八年(一九五三年)に大浜の崎原公園内にオヤケ赤蜂の顕彰碑を建立した。
 また、この戦乱のときに殺された古乙姥は、姉の真乙姥を祀る真乙姥御嶽の入口近い場所に葬られ、その墓はあまりに貧弱な墓だったので、人々からは蝸牛墓(つだみばか)呼ばれていて、毎年の四箇の綱引きのときに裏切り者として踏まれていたが、赤蜂の顕彰碑が大浜に建立されてから、一七年後の昭和四五年(一九七〇年)に大浜の人達の度重なる要望で、その墓から古乙姥の遺骨が掘り出され、赤蜂の顕彰碑の下に納められた。
 それは実に四七〇年ぶりの再会であった。

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19 竹富島 星砂の由来

 昔、十二支の子(ね)の方角の星、すなわち北極星が父親となり、午(うま)の方角の星が母親になって子どもを生むことになった。
 南の方角の母親星は、お産の時期が近づいたので、天の大明加那志(だいみょうかなし)にどこでお産をしたらよいか相談した。
 天の大明加那志は、しばらく下界の南の海を眺めて、珊瑚が広がる美しい竹富島を見つけ「子どもを生むなら水が温かく潮の流れもゆるい、竹富島の南が良い。」と教えた。
 母星は、天の大明神に教えられた竹富島の南の海に降り、珊瑚が光る海にたくさんの子どもの星を生んだ。

 ところが海を治めている七龍宮神(ななりゅうぐうしん)は、母親星が自分にことわりもなく海に子どもを生み、美しい海を汚したので大変怒った。
 そこで、七龍宮神は、自分に仕えている大蛇を呼ぶと「私の海を勝手に使って子どもを生むのは許せない。すぐに行ってあの星の子どもを食べてしまえ。」と命令した。
 大蛇は命令されたとおり、竹富島の南の海にやって来て、その大きな口を開けて子どもの星をすべて食べ殺してしまった。
 こうして、大蛇に食べ殺された星の子どもの死体は小さな星の形をした砂になり、波にただよった後で竹富島の南の東美崎(あがりみさき)の浜に打ち寄せられた。
 これが星砂の始まりである。

 竹富島の東美崎には御嶽があり、そこにはやさしい女神が住んでいた。
 この女神は、子ども星の遺骨の星砂をみつけると大変かわいそうに思って、砂浜からていねいに拾い集めた。
 「この星を私の香炉に入れておけば、島の祭りのときに、この子どもは天国にいる母親の午の方星(ふぁぼし)のところに返れるだろう。」
 こう考えた女神は、集めた星砂を自分の御嶽の香炉に入れておくと、女神が思ったとおり香炉に入れた星砂は、祭りのときに、司達(つかさたち)がたく線香の煙と一緒に天に登って行った。
 それから竹富島では、年に一度の東美崎の御嶽の祭りのときになると、かならず香炉の星砂を入れかえるようになった。
 そのおかげで、星砂は次々に天に登り、南の方角の母親星のまわりで光るようになったという。

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20 西表島 西表の別れ浜

 西表の鹿川(かのか)部落と古見(こみ)部落の間に別れ浜という浜がある。
 この浜の名にはこんな由来がある。

 鹿川にナサマーという美人の女がおり、古見には満慶(みつけー)という船大工の名人がいた。
 二人はそれぞれの噂を聞いていたので、お互いにいつかは会ってみたいと思っていていた。
 ある日、満慶は古見から、ナサマーは鹿川から会いに行った。
 そのちょうど中間に浜があり、二人はその浜ですれ違った。
 その時にお互いが会いに来た相手だと思ったので、振り向いて話しかけるとやはりそうだったので、語り合った後で別れてまた鹿川と古見に帰った。

 次に出会ったとき、満慶がナサマーに結婚を申し込んだ。
 すると、ナサマーは満慶に言った。
 「私は鹿川へ帰って芭蕉(ばしょう)を倒して糸を取ってから織物をし、その織物ができたらそれをこの浜に持って来ます。あなたは山から木を切って刳舟(くりぶね)を作ってこの浜に持ってきて下さい。それが二〇日の間に出来たら結婚しましょう。」
 満慶は山へ行って木を切り、それを焼いて刳舟を作った。
 鹿川のナサマーは、芭蕉を倒して糸を取ってからそれを織った。

 約束の二〇日目になったので、その日にナサマーは時間通りに織物を持って行った。
 ところが、満慶は三時間も遅れて作った刳舟に乗ってやってきた。
 ナサマーの織物は立派にできていたが、ナサマーが満慶の作った刳舟を調べると錨綱(いかりづな)をつける穴が開いてなかった。
 それでナサマーは「あなたは時間も遅れ、錨綱の穴も開いていない。これではあなたを私の夫にはできない。」と言ってさっさと鹿川に帰ろうとした。
 あきらめきれない満慶はナサマーの後をついて歩きながら結婚してくれと頼んだ。
 そして、歩きながら切った竹を割って籠を編んだ。
 やがて満慶は編んでいた籠が完成したので、ナサマーに言った。
 「これは自分の形見として上げるから持って行きなさい。」と言って籠を渡した。
 ナサマーは「ありがとう。」とその籠を受け取って鹿川に帰った。
 その二人が別れた浜を別れ浜という。
 ナサマーが鹿川に帰った後で、その籠で水を汲んでみると水も漏らないぐらい上手に作ってあった。
 ナサマーはそのとき「歩きながら作った籠がこんなに上手に出来ていたのだから、私はあの人と結婚すれば良かった。」と後悔したが、籠は大事に使っていた。

 あるとき、ナマサーがその籠を持って畑へ芋を堀りに行って帰って来た。
 ちょうど満潮のときだったので、芋を入れた籠を頭に載せて岩の間を通っていた。
 その途中、頭に載せた籠が上の岩に当たり、ナサマーはその岩から落ちて死んでしまった。
 今はそこを、先に行かないで戻るところという意味でナサマームドゥルーと言っている。

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21 小浜島 ザンの牛引き

 昔、小浜島の農夫が暑い日に大きな水牛で海岸近くの畑を耕していた。
 お昼になったので、水牛を畑の傍の石に繋いでおいて、水でも浴びようと海岸に下りた。
 小浜島には周囲に遠浅の浅瀬があり、その潮が引いた大きな水溜まりに行ってみると一頭のザン〔ジュゴン〕が居眠りでもしているように動かないでいた。
 ザンは、大勢で探しても滅多に見つかるものではないし、八重山ではその肉を人頭税の代わりに納めることができるほど貴重だった。
 農夫は「今日はもう良い物を見つけた。」と思って、急いで上の畑に行くと、水牛に鞍をかけて来て鞍に結んだ綱をザンの尻尾に括(くく)って水牛にザンを引かせて陸に上げようとした。
 ところが、鈍いと思っていたザンは、すごい力であべこべに水牛を深みの方に引きずって行った。
 そのうちにザンは水牛を引きながら浅瀬から外海に出ると、ゆうゆうと泳ぎだしたので水牛はザンの力に負けて、とうとう外海に引っ張られて行ってしまった。
 大きな牛をグトゥイというから、その農夫は「もう私のグトゥイ。私のグトゥイ。」と泣いていたが、やがて水牛とザンはどこに行ったのか波に隠れて見えなくなってしまった。

 次の日の朝、水牛をあきらめられない農夫が海岸を廻って捜していると、向こうの嘉弥真島に黒い物が見えた。
 舟を出して行ってみたら、なんとそれは、ザンに引かれていなくなった農夫の水牛だった。
 見ると水牛につけておいた鞍はなくなっていた。
 鞍をつけたままならば、水牛はいつまでもザンに引かれて行くのだが、幸いに引かれて行くうち鞍がはずれてしまったらしい。
 自由になった水牛は泳ぐことができたので嘉弥真島に泳ぎついて命拾いをし、のんびりと嘉弥真島の草を食べていたのだった。
 もちろん農夫はその水牛を小浜島に連れて帰ってきた。

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22 鳩間島 武士の家

 鳩間島に人が住み始めたのは海賊が武士の家(やー)に住むようになってからだという。
 武士の家は島の北西の半島の突端に要塞風に石垣を積みあげた遺跡で、石垣には鉄砲を撃つための銃眼のような穴や、海を通る船に合図するために旗を立てる石もあった。
 そのころは武士の家の海賊が鳩間島を根拠地にして各地と交易しながら島を支配していた。
 海に出て漁をしていた人が島に帰って来ると、海賊達は「捕ったものを何か持ってこい。」と言うので、魚や蛸(たこ)を武士の家に持って行ったという。
 この武士の家は、海賊がいなくなった後、黒島や新城島にもある火番守になり、いつも番人が沖を通る船を見張っていた。
 沖を船が通ると昼は狼煙(のろし)を上げ、夜には火を焚いて西表島や小浜島に連絡していた。
 武士の家には、海賊の宝物が隠されているという話があったが、戦後になると積まれていた石垣の石が崩されて護岸工事などに使用されたので、今はほとんど昔の形を残していない。

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23 黒島 雨の神

 昔、黒島の東の海岸が近い野原(ぬばる)というところで野原美屋久(ぬばるめーく)という男の人が自分で井戸を堀り、その周辺を耕してたくさんの作物を作って一人で暮らしていた。
 この人は大変働き者で、夜になると海に行って投網(とあみ)で魚を捕り、裕福な生活をしていた。
 ところがある年に野原の木まで枯れるような長い旱魃(かんばつ)になり、農作物も枯れかかった。野原美屋久は非常に心配をして雨を恵むように神に祈りながら投網を持って東海岸に出かけた。
 魚を捕りながら次第に南の方に行くと、見たことのない形の船に五人の小人が乗ってユサユサと漕いで島に着いた。
 小人たちは船を上げようとしていたが、その船が重過ぎるのか、中々陸に上げられないでいた。
 野原美屋久はその小人たちの船を上げるのを手伝ってやり、どこから来たかきいた。
 すると小人たちは「私達は南(ぱい)の島から来た雨の神だ。」と言った。
 野原美屋久はそれを聞いたもんだから、大変喜んで、その日は小人たちをもてなした。

 翌日になると野原美屋久は五名の小人と一緒に畑に行った。
 すると、小人たちは一列に並んで、芒(すすき)の茎を切ったものを二、三本ずつ持って「雨よ降れ、雨よ降れ。ホイ、ホイ。」と呪文を言って芒を投げ雨乞いの願いをした。
 野原美屋久は「こんな雨乞の願いで雨が降るのかなあ。」と思っていた。
 その晩は寝るまで空には星がいっぱいで晴れており雨が降る気配もなかったのだ。
 しかし、人が寝静まったころから雨が降りだし、翌朝まで雨は降り続いた。おかげで作物は生き返った。
 それから五、六日ぐらい続けて夜になると小人たちが雨乞いの願いをしたので毎晩雨が降った。
 小人たちは、黒島から船を出す日になると、野原美屋久に雨乞いの呪文を教えて「次の旱魃のときもこれをやればよい。」と言って、島の東海岸から船を出した。
 野原美屋久が見送ると、小人たちは北へ北へと船を漕いで、その日のうちに大浜の東海岸に着いた。

 そのころ大浜にも黒島の野原美屋久と同じように働き者のハンナヤー大主と言う人が海岸で投網をしていた。
 小人たちは船から浜に上がると、石垣島に雨を降らせ、ハンナヤー大主にも雨乞いの願いの呪文を教えた。
 ハンナヤーの大主は、広い空き地を田に変えて稲を作ったので、八重山でも一番の金持ちになった。
 五人の小人たちは、於茂登山に登り、於茂登山の雨の神となった。
 黒島の野原美屋久は、南の島から来た小人たちに教わった雨を降らせる呪文を各御嶽(かくおたけ)の神司(かみつかさ)にだけ教えて、一般の人には教えなかった。
 だから黒島では旱魃になると、神司が御嶽で雨乞いの願いをし、それでも雨が降らないときには野原美屋久が使っていた野原井戸(ぬばるがー)に来て、そこで芒を水につけて投げて雨乞いの歌を歌いながら、島の高いところ高いところを回り、最後は西の海岸で力のある若い青年が相撲を取って雨乞いをした。

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24 新城島 夜烏の教え

 昔、新城島の長間屋(なーまーやー)の人が自分の船を見に海岸に下りて行くとたくさんの夜烏(よーらさー)が船にたかって一生懸命、浜に上げようとしていた。
 それを長間屋の人が見て、その船を浜に上げてやった。
 すると夜烏は大変感謝して名を聞いたので「長間屋と言います。」と言うと、夜烏達は「私達が部落の上をクワーッ、クワーッと鳴いて通る時は、風邪の種や病気の種を蒔いて歩くから、私達の鳴き声を聞いたら長間屋どーと言って臼を杵で叩けば、あなたの家の上だけは、今日船を上げて頂いた恩返しに風邪の種を蒔きません。」と言った。

 次の晩、夜烏が鳴いて空を飛んできたので、長間屋では「長間屋どー。」と言って杵で臼を叩いたので、長間屋だけは病気にはならなかった。
 近所の人達は不思議に思って、長間屋に聞きに行ったが答えなかった。
 また夜になって夜烏が鳴いて飛ぶと長間家では臼を杵で叩いたので、「これは不思議だ。やはり何かの呪いじゃないか。」と思ってね、みんなで長間屋に聞きに行ったので、もう隠しておけなくなり、夜烏の乗ってきた船を浜に上げてやったこと、そのときに夜烏が教えてくれたことを話した。
 それから新城島の人達は、どの家もみんな夜烏が鳴いて飛んで来ると、長間屋を真似て臼を叩くようになった。
 夜烏は、あまりあちこちで臼を叩くので「これはどの家も長間屋の孫達か。」と思っているという。

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25 波照間島 波照間の新生

 昔、波照間島に住んでいる人間は、猿のように体中毛がいっぱいで心掛けが悪かった。
 しかし、身体は丈夫だったので、どんどん人が生まれ、島中いっぱいになるほど人が増えた。
 それを知った神様は「波照間島に住んでいる人間は心掛けが悪い者ばかりだ。油雨を降らせて皆殺しにしよう。」と言って、心の優しい兄と妹の子どもにだけは鍋を被せておくと、残りの島の人々には天から燃えた油雨を降らせて一人残らず滅ぼした。

 生き残った兄と妹はだんだん成長して、兄は一人前の若者になり、妹も立派な娘になった。すると兄は自然に妹を思い、妹は兄を思うようになった。
 二人はどうすれば人間が生まれるか思案して、足腰ゆすぶったり、鼻の穴や脇の下などを互いに触ったりしているうちに、男と女の違いが分かった。
 二人が「ああ、ここだろう。」と思って交わると妹が妊娠した。
 それから、二人は海岸端のミシュクという岩の下の湧き水があるところで暮らしていると、ショウジョと言う猛毒の魚が生まれた。
 二人は住んでいるところが悪いから人間が生まれなかったのだろうと思い、次には海岸から離れた畑のそばに石を積み、雨さえしのげればいいと思って片屋根の家を作って暮らしていると、今度は百足(むかで)が生まれた。

 ちょうどその時、秋の夜の晴れ空に四つ星が見えたので、今の外部落(ほかぶらく)の保多盛(ほたもり)家の場所に移って、その星のように四本の柱を立て茅を刈って屋根を四角に葺(ふ)いて、その家で暮らしているとようやく人間が生まれ、続いて何人もの子宝に恵まれた。
 その子孫が波照間島の人達だという。
 今も祀られている新生(あらまり)ぬパーの墓は、そのときの妹の墓だという。

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26 与那国島 与那国の猫小

 昔、与那国島の租納に大川加仁という爺さんが妻子もなく一人暮らしの生活をしていた。
 その爺さんが山に薪を取りに行くと、変な声で鳴く猫の声が聞こえてきた。
 爺さんが行って見ると、ヤシガニの穴の中に猫が片足を入れて鳴いていた。
 爺さんは持っていた刀で、ヤシガニの爪を切り落として猫を助けてやった。
 すると、その猫は片足を引きずるようにしながらどこかに逃げて行った。
 爺さんは、その猫のことをあまり気にせずに、薪を取って家に帰った。
 すると、家の中からミョウと猫の鳴き声が聞こえてきたので、あたりを見まわすと山で助けてやった猫が家の中から出て来た。
 爺さんは自分の家がどうして分かったのか不思議に思ったが、それからは、その猫をわが子同様に可愛がって飼うことにした。

 ある時、爺さんは役人から人頭税の俵を八重山まで運ぶように言われた。
 爺さんは猫に、帰って来るまで留守番しなさいと言って、俵を積んだ船に乗り港口から海に出た。
 すると、船底からミョウと鳴く声が聞こえ、家に置いてきたはずの猫が出て来たのでびっくりした。
 爺さんは、船を港に戻してもらい猫を家に連れて帰ると、家の柱に縛りつけて「猫を船に乗せると災難が起きると言われているから、連れて行けないんだよ。私が帰ってくるまで留守番をしなさい。」と猫に言い聞かせて、爺さんはまた船に乗り東に向って進ませた。
 もう一息で石垣島というところまで来ると、また船底からミョウと鳴きながら猫が出てきた。
 爺さんはびっくりしたが、もう引き返す訳にはいかないから、その猫を乗せたまま石垣島の蔵元の港に着けた。
 石垣島では、与那国からの船が入るとすぐに人が集まって、与那国から載せてきた米俵を蔵元の蔵に運び終えた。
 爺さんは猫と一緒に与那国に帰り、それからも猫を大切にして毎日楽しく過ごしていた。

 やがて、その与那国の米俵は宮古や石垣の米俵と一緒に首里城に届いた。
 ところが、宮古の米俵も石垣の米俵も鼠に齧(かじ)られていたが、与那国の判がついた俵だけは無傷で届いた。
 そのころは帆前船だから与那国から石垣まででも一〇日か半月ぐらいかかるのに、一番遠い与那国という印のついたものだけが鼠に齧られずに届いていた。
 不思議に思った王様は「これは不思議だ。調査してきなさい。」と役人を石垣島まで派遣して調べさせると、与那国から米俵を運んできた船には、猫が乗っていたことが分かった。
 役人は、そのことを王様に報告した。
 そのころ首里城の蔵に納めてある米俵が鼠に荒らされており、いくら猫を連れてきても鼠退治ができず困っていた王様は「そんなら、その与那国の猫を連れてくれば、蔵の鼠を退治するだろう。今すぐ、その爺さんから借りてきなさい。」と言われたので、役人は与那国の爺さんの家まで来て「御主加那志(うすがなしー)があなたの猫を借りて蔵の番をさせたいとおっしゃっているので、その利口な猫を貸してくれ。」と頼んだ。
 爺さんは、御主加那志の仰せなので、いやとは言えないから、「はい、光栄に思い早速差しあげます。」と返事して、猫には「わざわざお前を連れに役人方がお出でだから、御主加那志の仰せを守って務めを果たすんだよ。」と言い聞かせて、猫を貸すことにした。
 ところが、猫を船に乗せて連れて行こうとすると、船の柱に縛っておいた猫がいなくなっている。
 役人たちが船中をいくら捜してもいないので、爺さんの家に行ってみると、いつの間にか猫は爺さんの家に帰っていた。
 また猫を捕まえて船に乗せるとまたいつの間にか逃げて爺さんの家に帰っている。
 役人は仕方なく首里に帰って、王様に「もう猫は飼い主から離れないので、自分達の手に負えません。」と言うと、王様は「それじゃ、飼い主も一緒に連れてきなさい。」と言った。
 役人は与那国に来て大川の爺さんに「飼い主のあんたも首里に来いという命令だ。」と言ったので、爺さんはもう驚いて、「自分は悪いことをした覚えはないから、首里には行かない。」と言うので、役人はあわてて、「そういうことじゃない。王様が猫を欲しいっていうんだから、ぜひ猫と一緒に来て下さい。」と今度は土下座して拝んで頼んだので、爺さんも事情が分かり、猫と一緒に首里に行くことにした。

 爺さんが猫を連れて、首里城に行くと、御主加那志は「ああ、よう来てくれた。無理な願いですまなかったな。早速だが蔵の番をしてもらおうか。」と言われたので、爺さんは「猫よ、今日からは御主加那志の言い付けを守って働くんだよ。」と言い聞かせ、早速、猫を蔵に入れるとすぐに片っ端から鼠を喰い、残らずきれいに退治してしまった。
 御主加那志は、とても喜んで「こんなに利口な猫はどこにもいるまい。あなたの猫の手柄はただごとではない。ありがとう。猫の手柄に君に欲しいものをあげよう。何が欲しいか言いなさい。その代わり、この猫は自分に譲ってくれ。」と言った。
 爺さんは「欲しい物は何もございません。御主加那志の蔵の鼠をこの猫が退治して御主加那志に喜んで頂いただけで結構でございます。」と申し上げると、御主加那志は「そうか、そうか。そうではあるが、それではいけない。それじゃあ、褒美に親雲上(ぺーちん)の役名をあげよう。」と言って、与那国島の役人では一番位の高い親雲上の位を与えた。
 爺さんは「助けてあげた山猫の働きで、そんな貴い位までいただき、こんな光栄なことはない。」と喜んだ。
 爺さんは、猫を御主加那志に差しあげると「もっともっと働き、御主加那志に孝行するんだよ。」と猫に言い聞かせて与那国の家に帰ってきた。

 ところが、驚いたことに家の中に入ってみると、どうして帰ってきたか分からないが、家の中からまたミョウという猫の鳴き声がした。
 なんと、首里に置いてきたはずの猫がちゃんと家に帰ってきていたのだった。
 与那国島ではこの猫のことを「与那国の猫小(まやーぐぁー)」と言う歌で伝えている。
 その歌では、「与那国の猫は、鼠(うぇんちゅ)騙しが上手で、与那国の女は男を騙すのが上手。」と歌っている。

 今、大川家の先祖となるこの大川雲親上(ぺーちん)のお墓は割目(わりめ)という所にあって、子孫達がちゃんと掃除して祀っている。

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