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松村 宗混

東恩納 寛量

沖縄伝統空手道古武道の人物列伝

その昔、沖縄伝統空手道の基礎を築いた先人達には多くの逸話が伝えられている。
沖縄伝統空手道の真髄に近づいていただくために、その一端をご紹介いたします。


松村 宗棍(まつむら・そうこん)
1809年〜没年不祥

松村宗棍は、30歳足らずで琉球国王の御側役となり、中国や薩摩に派遣されるほどの人物であり、頂点にまで達したその文武は奥深く、品格を備え、もっとも拳法が盛んであった中国は福州の武人達も格別 の敬意を払ったといいます。

松村宗棍は武の七徳として「武は暴を禁じ、兵を、人を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和、財を豊かにす」とし、それを実践したのでした。

右のイラストは、女武士と呼ばれたウメとの対決場面です。一度目はウメを侮り、負けますが、二度目は、熟考の末の戦術で勝ちます。宗棍はウメと結婚し、役人として、空手家として、ますます精進を重ね、一時代をになう活躍をしました。

松村宗棍

 


東恩納 寛量(ひがおんな・かんりょう)
1853年〜1914年

東恩納寛量は、米国のペルー提督が那覇に立ち寄った同じ年、1853年に生まれました。小柄でしたが、抜群の運動神経で、当時「手(ティー)」と呼ばれていました空手が得意でした。二十歳を過ぎた頃、寛量は、当時の一つの風潮でも合った中国・福建省に渡り、武術の修行をしました。計三回ほど福州に渡り最後に沖縄に帰ってきたとき寛量は40歳になっていました。

福建省に滞在中の激しい修行ぶりと武勇伝はいくつか伝えられていますが、鍛錬用の武具をたくさん持ち帰り、それは今日の沖縄伝統空手道の鍛錬具の基礎となりました。

右のイラストは、福建省での修行時代、同門の巨漢の高弟が酔って暴れたときに取り押さえた様です。その後、再度対決した際、寛量 が型を演じると、巨漢の高弟はその見事だに感服し、小柄な寛量を師のように敬うようになったということです。

東恩納寛量

 

 

 


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