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原風景を探しに行こう!
字宜野湾郷友会の皆様と一緒にいざ出発!、メーマーチューグムイ跡
このあたり一帯は、戦前にメーマーチューグムイがあったところです。農作業の後に芋や手足についた泥を洗い流したり、牛に 水浴びをさせていました。
事務所前の道路は旧県道。飛行場建設以前には南上原から大山まで続き、馬車一台が通れる程度の狭い道でした。
クマイアブ(宜野湾クマイーアブ祭祀遺跡)
基地内の樹木が密生しているあたりがウブガー(産泉・産水を汲むカー)。昔はウフガー(大きいカー)とも呼ばれていました。
この辺りは集落宅地よりも高台で畑地が広っていました。ここの土はマージといわれる赤土で畑地に適していたのです。
畑では、主にサトウキビと芋が作られていました。
サトウキビは黒糖用に換金され、芋は宜野湾馬場にあったマチグヮー(市場)に持っていくと、首里方面から買いに来る人がいました。
大豆も栽培しており、豆腐を作って食用にしたり販売もしていました。豆腐のおからは、豚のえさにも使われていました。
ウブガー(宜野湾メーヌカー古湧泉)
《戦争当時の話》
60 ~ 80 名くらいがここに避難していました。
ところが、米軍がブルトーザーで土を敷きならし、壕の入口を塞いでしまったのです。中の人たちは驚いて、奥の方に後ずさりしました。
暗闇の中で蝋燭の灯火だけが頼りでしたが、それも
消えてしまったので
手探りで入口の土を掘り
空気孔を空けました。
皆で話し合った結果、
ここを出ることになり、
白い布切れを手に壕を
出て米軍に投降しました。
ここは、神女らが籠って禊(みそぎ)をしたことから“クマイ”アブと呼ばれてます。全長123mにもなる洞窟で、大戦当時、村の避難壕として使われていました。
マータクドー・ウシナー(闘牛場)
ここは戦前、「マータクドー・ウシナー」という闘牛場があったところです。
当時、ウシナーは大山、喜友名にもありましたが、宜野湾は規模の大きな集落だったので、中部地域でも牛オーラセーが一番盛んに行われていました。
牛オーラセーをすると、赤土でウブガーの水が濁るため、神山との間にあるミーハギにウシナーを移転しました。このミーハギウシナーは天然のすり鉢状の地形で、周囲には松などの樹木が茂り、観覧するには絶好の木陰の客席でした。
 現在マータクドー・ウシナーは、字宜野湾郷友会がゲートボール場として整備し、市民の憩いの場として利用されています。
慰霊碑もあり、毎年慰霊祭が行われています。
土帝君
字宜野湾の年中祭祀
字宜野湾では、戦前から行ってきた年中祭祀があり、戦後になって元々の集落が基地に接収されてからも、字宜野湾郷友会や宜野湾区を中心に祭祀を執り行っています。主な祭祀に「土帝君(トゥーティークー)例祭」「カーサレー拝(ウガ)み」「シマクサラシ」があり、これらが市登録文化財として認定されました。

土帝君例祭
旧暦2月2日にチュクイ・ムジュクイ(農作物)の神である土帝君の祠(ほこら)の前で行われる祭祀です。字宜野湾の土帝君は、屋号イシンミ(石嶺)の祖先が1734年以前に中国から持ち帰ったとされており、琉球の歴史書「球陽(きゅうよう)」にもその記述がみられ、集落の守り神としても篤く信仰されています。
中国の土地の守り神である土地公(トチコウ)が、農業の神様として沖縄に伝わり、土帝君(トゥーティークー)と呼ばれるようになりました。
シリガーラ近辺
集落の小高いところにある上村渠( うぃんだかり) 一帯は、宜野湾集落の発祥の地と伝わっています。イシバーヤ(石柱)、チチクビ(土壁)、アタイグヮー(小さな畑)、畝(ウネ)などの屋敷跡がいまでも残っています。瓦葺のノロ殿内は建物も残っていたので、御神体の石を何本かを現屋号嘉手苅の敷地側に再建された神屋に移し、祀られています。
メーンサクヌガマ(自然洞窟)
シリガーラから200メートルほど南にメーンサクヌガマがあり、戦時中には50名くらいの字宜野湾住民が避難していました。メーンサクヌガマの流れは、かつての役場(番所)の後ろにあるミーガー(堀井戸)までつながっていました。
現在は住宅地になっていますが、戦前・戦中は、カンミンモーに通じるガマの入口がありました。そこはカンミンモーガマとして、戦時中は100 名ぐらいが入れる大きさでした。
ここ(カンミンアガリモー)は高台になっていて、土帝君に次いで標高が高く、松の木に登ると海も見えました。
神山カンミン遺跡付近
神山カンミン遺跡(神嶺モー)の石灰岩丘陵地は、神山の草分けと言われていいます。昔は、現在のタンクの上端よりも高い山でした。ここには、香炉のある拝所でした。地下は、カンミンモーガマ(洞窟)があり、向かって右側がガマの入口でした。
北側にあるメーヌカーは、基地の貯水タンクの建設の際に、土砂が流れ込み埋まってしまいました。
《戦争当時の話》
このガマの底は深く、2本のロープに竹の横桟を渡した縄梯子を使って昇り降りしていました。戦時中、このガマの壕に避難していた青年が小便をするためにガマの外に出たところ米兵に見つかってしまい、ガマ内に手榴弾を投げ込まれてしまいました。中に隠れていた老人や子供たちは、皆で反対側の口から出て投降しました。
メーヌカーガシラ・按司墓ガマ付近、古井戸「神山・愛知ヌールガー」
戦時中、按司墓ガマも避難壕として使われました。
戦後、埋められて小さな空地になっていますが、陥没の危険があるため建物等の建設は避けられています。
戦前から使われていた井戸。字神山郷友会では年に一度、地域の生活に欠かせない湧き水などを拝む「初ウビー」を行っています。
隣地に建物が建設されてからは、水量が減ってしまいました。
《戦争当時の話》
底には水が流れていました。そこで、片側に溝を掘り、その上に棚を作って荷物置き場にし、その隣の幅2mほどを皆の居場所にしました。
関連リンク
沖縄県 [ 基地 ]   沖縄県[普天間飛行場の跡地利用に向けた「全体計画の中間取りまとめ」]   宜野湾市[市政情報・基地関連情報]   沖縄21世紀ビジョン